幻肢

 渡り廊下は塵一つ落ちておらず、イルカの腹のようにつるつるとしている。
 その中程で、キヌイは何やら途方に暮れている下級生と行き合った。
 最新機種とおぼしいPDAを目の前にかざしながら、しきりに首をかしげている。表示させた構内地図のホログラムと睨めっこをしているようだ。複雑怪奇に入り組んだ校舎のなかで例年のように遭難している新入生か、もしくは留学生かもしれない。念のため自分の端末に多言語同時通訳ソフトを起動させながら、キヌイは話し掛けた。
「何か困っているなら、手を貸すけれど」
 下級生はぱっと振り返った。泣きそうになっている顔は恐ろしいほどに整っており、思わずキヌイは見とれるよりも圧倒された。電脳空間のモデルアバターのようだ、という埒もない感想を抱く。見目麗しさも過ぎると異質さを帯びる。なぜか、ニャクオウジ邸の応接間に飾られた古めかしい陶器人形を思い出した。
「助けてくださる?」
 かすれた声には、スペースコロニー出身者特有の古風な訛りがある。キヌイはふと懐かしさを覚えた。
 高等部に進学してから、なぜかやたらとまとわりついてきた同級生も、かつてはこんな浮き世離れした喋り方をしていたものだ。調子に乗られると面倒なので言いはしなかったが、オールドノベルから切り抜いてきたかのような風変わりな彼女の発音を、キヌイはひそかに好ましく思っていた。
 悲しいかな、水は低きに流れるもので、同窓で過ごしたこの数年のうちに、彼女もすっかりざっくばらんな地球方言になりはててしまったが……。
「もちろん、わたしにできることがあれば」
 キヌイが請け合うと、下級生はほっとしたように頬をゆるませた。
「部室を訪ねたいのですけれど、ナビを使っても一向に辿り着けないの。何度も何度も、この渡り廊下に戻ってきてはやり直しで、もう足が棒のよう。方向音痴ではないはずなのに、わたし、自信がなくなってきてしまったわ。読書クラブ――というところの部室なのですけれど、ご存じかしら」
「ああ、それなら、」
 キヌイは軽く頷いてみせた。
「わたしについてくればいいよ。ちょうど今から行くところだから」
 下級生は少し不思議そうな目をして、カナリアのように小首をかしげた。
「……ひょっとして、あなた、ニャクオウジ部長だったりなさる?」
「そうだよ。第三学年のニャクオウジ・キヌイ。あなたは入部希望者? それとも今日は見学だけかな」
 突然、下級生が感極まったように飛びついてきたので、キヌイは渡り廊下の手摺りに背中をぶつけそうになった。目を白黒させているキヌイなどお構いなしに、下級生は彼女の手を取り、ぎゅうぎゅうと握りしめてきた。絹のように滑らかな両の掌。ざらついたところのない、妙に滑らかすぎる、まるで人工皮膚のような――
「お会いしたかったわ。あなたの話はよく聞かされていたのよ。カヨに優しくしてくださってありがとう。あの子、いろいろと抜けている子で、ずっと心配でたまらなかったの。あなたがいてくださって、わたしがどれほど心慰められたことか」
「カヨ? あなたはトオヤの……?」
 虚を衝かれているキヌイに、妖精じみた下級生は花のほころぶような笑みを浮かべた。
「トオヤ・ナツよ。カヨは、わたしの――姉妹なの」


「トオヤに妹がいたとは」
 渡り廊下を過ぎ、連れだって部室棟のエントランスを歩きながら、キヌイはため息まじりに言った。
「いや、そういえば、前に存在をにおわされたことがあったような――誰かと頻繁に連絡を取り合ってることは知ってた。ただ、わたしの印象では、もっと年上の姐御肌の女性って感じだったから。あまりトオヤと似てないんだね」
「昔はそっくりだったのよ」
 ナツは、うっそりと片えくぼを刻んだ。
「瓜二つだったの」
「ふうん。子ども時代からびっくりするくらい面変わりすることってあるよね」
 記憶のなかのミリュウを思い返しながら、キヌイはあっさりと頷いた。
「ニャクオウジ部長にも妹さんがいらっしゃると聞いたわ。思い当たる節がおありなのかしら」
 見透かしたようにナツは言った。砂糖菓子のような外見の割りに、妙に老成したところの多い子だ。キヌイは目をすがめて見下ろした。ふわふわにホイップされたクリームの下に、何か思いがけないものが隠されているような気がして。
「顔はさほど変わっていないけど、性格かな。昔の妹は、あまり笑う子じゃなかった。今は、よく笑い、よく笑わせる子になった」
 慎重に言葉を選び、キヌイは説明した。
 初めてミリュウがニャクオウジ邸に連れて来られた日のことを思い出す。一人っ子の、人工子宮生まれの自分に、否応なく姉という属性が付与されることになった日。応接間につどった大人たちは事務的に談笑しながらも、それぞれに固唾を呑んでいるようだった。ナオとレイナは互いを励まし合うようにたびたび目を見交わした。キヌイは人の輪に背を向け、硝子ケースに収められた陶器人形を眺めていた。そして、硝子の映り込みを利用した死角から、人形よりも無表情な新しい妹を観察していた。
 十歳の誕生日を祝われたばかりのキヌイよりも二歳年下ということだったが、はるかに幼く見えた。発育不良だったのかもしれない。動作にもめりはりがなく、生気に乏しかった。こぼれ落ちそうな目だけが、追いつめられた小動物のようにしきりにぎらついていた。
『耳が不自由なんだ。手術も考えているけれど、まだ小さいから』
『話しかけるときは、筆談でね』
 ひっそりと母たちに忠告されたが、その必要もなかった。義務付けられたメンタルケアの甲斐もなく、ミリュウは針ねずみのように、誰とのコミュニケーションも拒絶し尽くしたからだ。にわかづくりの二人の母、一人の姉は元より、非の打ちどころのない愛情深さをプログラミングされたナニーロボットに対してさえ。母たちは、キヌイを不安がらせまいとしてか平静を装っていたが、陰ではずいぶんと気を揉んでいたようだった。
 時折り、タブレット端末で児童書を読んでいる肩越しに、射るような視線を感じたことはある。だが、いぶかしげにキヌイが振り返ると、脱兎のごとく逃げ出してしまう。面倒臭くなって、振り返るのはやめた。ただ、ふと思いついて、挿し絵の色鮮やかな本を選び、フォントサイズを少し大きく設定することにした。
 これ見よがしにミリュウに背を向けて座り、ゆっくりとページをめくってみせると、じっとりと視線が貼りついてくるのが常になった。たまに、作中の展開が佳境に入ると、思わずといったふうにキヌイの肩に小さな指が掛かった。物語に没頭するあまり、警戒心も忘れてキヌイの肩甲骨に密着してくる小さな身体。行間にそそがれる食い入るような眼差し。
 一生かかっても読みきれないくらい大量の絵本や児童書をダウンロードした端末をレイナが買い与え、ドローイングペーパーに色鉛筆や多色ブラシでナオが動植物を描いてみせると、キヌイの背後霊は次第に姿を見せなくなった。
 それでもときどき、一人で読書をしていると、キヌイは思い出す――背後から肩に食い込む、紅葉のような小さな手を。どんなに時が経とうとも、あの儚い肢の感触を、忘れることなどできはしない。キヌイの家にやってくるまで、識別ID以外に自分の名前を持っていなかった少女。ミリュウの静かな耳は、人為的なものだった。育ちきらない身体を鎧っていた沈黙。
 砂を噛むような思いがして、キヌイは自分に言い聞かせる。亡霊は消えた。言葉のない、名前のない亡霊はもういない。だから……。
「前進したというわけね、失われた時間に囚われることなく」
 なぜかナツはひどく嬉しげに声を弾ませた。
「そう――なるのかな」
 キヌイはおぼつかないような口調で呟いた。
「そうよ、そうよ」
 部室の扉が無数に続く長い廊下を、まるでスキップでもするような軽やかな足どりで、ナツは進んでいく。
「水中から陸上で暮らすために足を生やす。空を飛ぶために蛹から蝶に羽化する。形態を融通無碍に転換してしまえる生き物の可変性が、わたしはとても好きよ。たとえ元には戻れなくても――変容しなければ見えなかった景色も、知ることのなかった物語も、きっとあるはずだわ」