うつろい姉妹

 渡り廊下は塵一つ落ちておらず、イルカの腹のようにつるつるとしている。
 その中程で、わたしと先輩は、校舎を巡回する警備オートマトンに出くわした。
『生徒二名、下校時刻を六分五十七秒超過しています。ただちに校舎から離脱してください。この区画は、二十四分三十八秒後、完全に閉鎖されます』
 オートマトンは硬直するように立ち止まり、無機的な顔をぐらりとこちらに向けて、抑揚のない音声を発した。
『虹彩情報をデータベース検索開始――特定、高等部・第三学年Aクラス/トオヤ・カヨ、高等部・第一学年Dクラス/ニャクオウジ・ミリュウ、計二名。繰り返します。ただちに校舎から離脱してください。拒否する場合は――』
「あなたに邪魔されなければ、もう三十秒は早く離脱できただろうね。すぐそこの昇降機でね」
 先輩は、蠅にでもたかられたように顔を顰めた。
「ほんのちょっと部活動が長引いただけ。構内の不穏分子になる予定は今のところないから、どうぞパトロールに戻って。すぐに消えるから」
 反論を了解したのかしていないのか、沈黙したオートマトンはその場に直立したまま、足早に脇をすり抜けるわたしたちをじっと見つめ続けていた。渡り廊下を過ぎても無味乾燥な視線は途切れず、直進して無人のエレベーターホールに行き着いたところで、ようやく立ち去る可動音が聞こえた。
「博物館に化石と一緒に展示されてるレベルの旧型AI」
 昇降機の呼び出しパネルの上に手をかざしながら、先輩は口のなかで毒づいた。
「正真正銘の不穏分子が侵入したとき、あんなぽんこつで撃退できるって理事会は本気で考えてるのかな。武装解除する前にスクラップにされてそうだけど」
「古き良き全寮制女子校というのが、弊校のコンセプトらしいですからねえ」
「古いのはもうそこらじゅう古いけど、良いの要素はどこなのさ」
「まあまあ」
 天を仰いで嘆く先輩を、わたしは適当になだめにかかる。
「古きを尊ぶ校風のおかげで、オールドノベルを鑑賞するわたしたちの読書クラブも辛うじて予算をいただけてるわけですし。知ってました? 書籍って昔は紙媒体のものだけを指したそうですよ。こないだ弟に教えてやったら、物凄くかわいそうなものを見る目で、『お姉ちゃん、本っていうのはね、こうして端末の画面に表示して読むものをいうんだよ。紙の本なんて都市伝説だよ。どうしたの。ノベル読み過ぎて頭壊したの』なんて言われました。失礼しちゃいますよね」
「弟いたの?」
 心底驚いた様子で、先輩は瞠目した。
「全然知らなかった。てっきりキヌイと二人姉妹かと思ってたよ」
「いるんですよ。もし弟じゃなくて妹だったら、キヌイとわたしと合わせて三姉妹でこの学院に入学させられたのに、って母さんがしょっちゅう悔しがってます。母さんは、パートナーとこの学院で運命の出逢いをした話になるととまらなくて。同級生だったそうで、だから母校には妙に思い入れがあるみたいです。救いがたいロマンチストですよね。弟はそれ聞いて、僕だけ入れないなんて不公平だーって抗議してました。理屈っぽくなって、最近ぜんぜん可愛げなくなっちゃったんですよ、あの子」
「お母さんって、ニャクオウジ議員?」
 わたしは吹き出した。
「まさか。ニャクオウジ・レイナはもっと鉄筋みたいなリアリストです。わたしたちが母さんって呼ぶのは、絵本作家のアンギ・ナオの方です。レイナの方は、昔はママって呼んでたんですけどね。キヌイがそっけなくレイナって呼び始めて、なし崩しにレイナ呼びになっちゃいましたね」
「それも知らなかった」
 リスのように、先輩は両頬をふくらませる。
「キヌイってば、水臭くてさ、家族のこととか全然わたしに話してくれないんだよね。ミリュウのことだって、今年入学してからはじめて存在を知らされたレベルだったんだよ。落ち込むよ。まがりなりにもこの三年、二人三脚で弱小読書クラブを支えてきたっていうのにさあ」
「無愛想に見せかけて、結構恥ずかしがりなんですよ、あの人」
 姉を弁護せねばと言葉を選び、わたしは先輩を慰めた。
「高等部に進学してから、キヌイはレイナと大喧嘩しちゃって、だからあんまり先輩に喋りたくなかったのかもしれません。キヌイは成績優秀ですから、レイナはゆくゆく自分の後継者にしたかったみたいなんです」
 進歩主義を掲げるレイナも、政治家一族という面倒な看板を背負っているせいか、こういうところは妙に古風だ。
「だから、生徒会に入って、生徒会長になって箔をつけて、将来のための人脈も広げておくようにって言い付けてたみたいなんですけど、キヌイって、ほら、黙って何か考えてるなと思ったら、突然あまのじゃくになるところあるじゃないですか。生徒会とか議員への布石とかキャリア計画とか全部ほっぽりだして、あろうことか毒にも薬にもならない読書クラブ創設ですよ。そりゃあレイナも腰抜かしますよ。母さんは爆笑してましたけど」
「嘘でしょ! それじゃあ、わたしたちの読書クラブってニャクオウジ=アンギ家の反抗期の産物だったってわけ?」
 出生の秘密を明かされた悲劇のヒロインのごとく、くなくなとエレベーターホールに倒れかかる先輩を、笑いながらわたしは支えた。
「いやいや、別にレイナへの腹いせだけが動機じゃないでしょうけどね。キヌイは昔から、誰よりも読書家なんです。純粋に本が好きだからクラブを作ったっていう経緯に、嘘はないと思いますよ。あ、ほら、昇降機来ましたよ、先輩。早く乗らなきゃ置いていきますよ」
「思いのほかショックだわ……。キヌイめ、明日会ったらとっちめてやる」
 わたしに続いて、先輩はよろよろと銀色の卵型の昇降機に乗り込んだ。音もなく扉が閉まり、高速で降下しだした密室のなかで、先輩はわたしを見た。
「キヌイが出世街道で脱線事故起こしたってことは、ミリュウがニャクオウジ議員の後継者になるの? 繰り上がりだと、そういうことになるよね」
「わたしはキヌイみたいな秀才じゃないですし、政治家向きじゃないですから、期待されてないと思います」
 ちょっと微妙な顔になって、わたしは答えた。
「それに――わたしと弟って、慈善養子なんです。キヌイだけは、レイナと母さんの遺伝子を混合させたデザイナー・ベビーなんですけど。やっぱり政治的な支持基盤を受け継ぐとなると、実子をさしおいてなんで養子が……ってことになるみたいで、だからレイナもキヌイには特に躍起になってるんですけど、却って亀裂が深まってしまって」
 何とも言えない顔をした先輩は、こちらに向き直って何か言いかけた。
 そのとき、ぷつりと糸がとぎれるような嫌な気配がして、先輩の声がぼわんと滲んだ。
 両耳にねっとりとした微温湯が流れ込んできたように、わたしを覆う世界のありとあらゆる音が遠ざかる。完全に聞こえなくなるわけではないけれど、何重にも毛布をかけられた上から辛うじて届く、不鮮明な唸り声のようにしかわたしには分からない。
「先輩、ちょっと待って。聴音域が、バグっちゃったみたい。接続し直します」
 金魚のようにぱくぱく動かしていた口を噤んだ先輩は、心配そうな目をした。わたしはあたふたと常備しているブレスレットからコントロールパネルを呼び出して、起動し直す。
「……じょうぶ? 大丈夫なの? 故障?」
 先輩の声が、ようやく戻ってくる。
「平気です。昇降機のなかだと、電磁波の関係なのかよくこうなっちゃって。そろそろ摘出してメンテナンスに出さないといけないんですけど。――それより、さっき何ておっしゃったんですか。聞きとれなくて」
「ああ、別にどうでもいいことなんだけど」
 先輩はほっとしたように頬をゆるませた。
「わたしね、ずっと、キヌイがニャクオウジ議員の慈善養子だと思ってたの。一年生の頃から、週末も長期休暇も一向に家に帰ろうとしないし。よく問題になってるじゃない。政治家とか芸能人とかが、パーティーや記念撮影のときだけ、わたしたちは血が繋がらなくても家族よってパフォーマンスして、実際は別宅のフラットで弁護士通じて生活費だけ支給してる、みたいな」
 この無口なクラスメイトもそういうシビアな立場なのかなって邪推しちゃって、と先輩はほかに誰もいないのに声を潜める。
「なんでずっと寮にいるのって遠回しに聞いても、露骨に目そらすし言葉濁すし。だから、なんか気になって一緒にいるうちに、いつのまにかキヌイ謹製の読書クラブに入部させられてたんだけどさ。よもやこんな油汚れみたいにしつっこい親子喧嘩のせいだとは思わなかったよ。血筋云々の因習に目をつぶれば、今時ホームドラマにもないようなご家庭じゃないの。気を遣って損した」
「姉が多大なご心配をお掛けしまして」
「いえいえ」
 わたしがおどけて頭を下げると、先輩も優雅に一礼を返す。低めた頭をゆっくりともたげながら、先輩は囁いた。
「ねえねえ、もしかしてミリュウが読書クラブに入部したのって、ニャクオウジ議員の差し金じゃない?」
「おお、よく分かりましたね。半分正解です。もう半分は、わたしがキヌイと負けず劣らずのオールドノベルフリークだからです。これは姉妹で母さんの影響かな」
 唇の片端を吊り上げて、悪漢のように先輩に向かってにやりとしてみせた。
「『なるべく接近して、今からでも進路の軌道修正をするように説得してくれ』という建前ですが、本音はレイナも早いところキヌイと仲直りしたいんですよ。たぶんもう、キヌイが政治家になろうが無政府主義者になろうが、レイナはさして気にしないと思います。どの道を選ぶにせよ、ぐちぐち文句はつけるでしょうけどね。キヌイもレイナも意地っ張りなんです。そういうところが親子の血なんでしょうね。遺伝って面白いですね」
「こんな曲者な妹を持って、キヌイもお気の毒に」
 まるで自分は曲者ではないと言わんばかりに、先輩は首を振った。
「……わたしもね、姉がいるの、実はね。これはキヌイにも言ってないんだけど。あいつも自分のことわたしに教えてくれなかったんだから、おあいこだよね」
「へええ、初耳です」
 わたしは思わず背筋を正した。
「先輩って軌道上の出身ですよね。じゃあ、お姉さんは、向こうのコロニーに? うわあ、ハイソですね」
「ううん、今は月面都市の方にいるよ。医療分野だと、地球やスペースコロニーよりも月の特区の方が発達してるし。そこの専門病院に入院してるの」
 はっとしてわたしは表情を改めた。はしゃいでいい話題ではないようだ。
「どこかお悪いんですか」
「植物状態でね。五年前に、輸送船の事故に巻き込まれて、それ以来、手の施しようがなくて」
 何でもないことのように先輩は言った。
「宇宙開発の高位研究者だった両親には、耐え難いことだったみたい。軌道上の名家に生まれて、二人とも成功者になるべく育てられて、事実どこをとっても文句のつけようもない夫婦だっただけに、この悲劇をうまく消化できなかったらしい。どうしても、どうしても元通りの《標準的》な娘を取り戻したいって妄念に囚われてね。そこで、一計を案じることにしたわけ。姉のクローンを誕生させて、成長促進剤を副作用の起こるぎりぎりまで投与して、そうして作製した年齢といい背格好といい姉にできる限り瓜二つの人間に、姉の人格を移植しようとしたの。パンジーの苗を新しい鉢に植え替えるみたいにね」
 先輩は、天使のようににっこりとした。
「その、苗床のクローンが、わたし」
 わたしは言葉を失い、たぶん顔色も失っていた。昇降機は、沈黙のなかを物凄い勢いで下降していく。そろそろと息を吐き、恐る恐る尋ねた。
「犯罪――じゃないんですか、それ」
「試験管ベビーを作ること自体に違法性はないし、人格移植手術自体にも問題はないよ。ただ、移植先のボディの事前同意が絶対条件だけどね。わたしの『遺伝的精子提供者』と『遺伝的卵子提供者』は、考えもしなかったみたい――ただの容器のはずの肉の塊に自我があるなんてことをね。細心の注意を払ってコロニーの司法局に根回しまでして、準備万端にしておきながら、肝心のクローンが同意書へのサインを拒否するなんて、傑作だよね」
 芝居がかった手振りで、先輩は両腕を広げた。
「凄かった。病院の会議室がね、まるでポップコーン製造機のど真ん中みたいだった。執刀医のグループは怒って出ていっちゃうし、弁護士たちは全員慌ててあっちこっちに連絡しだすし、『遺伝的精子提供者』は髪の毛を掻きむしって罵倒してくるし、『遺伝的卵子提供者』は泣きながら椅子で殴りかかってくるし、双方の親族に包囲されて無理やりペンを握らされそうになるし。いやあ、もう、しっちゃかめっちゃか」
 青空のように澄んだ声で、先輩は言った。
「『遺伝的卵子提供者』の母親っていうのがね――姉から見たら祖母にあたるのかな――こうなったら、ブレイン・ダイブして姉の心の声をこの恩知らずに聞かせてやろうじゃありませんか、って言いだしたの。きっと悲鳴を上げて助けを求めているに違いない。自分が、その痛ましい声に耳を傾けない悪魔だっていうことを、このコピーに思い知らせてやりましょうよってね――病院もさ、巨額の寄付金に目がくらんで言う通りにお膳立てしたわけ。眠ったままの声なき姉の託宣を、スピーカーに繋いで、サラウンドにして。わたしは椅子に縛り付けられててね。おおまかな事情を両親から涙ながらに伝達された姉はね、こう言ったの」
 先輩は、目を瞑った。
「『今、この病院の回線をハッキングして、皆さんを通報しました。人間、クローン人間、ヒューマノイドあるいはあらゆる人的人に対する非人道的な言動を通報理由として。ただちにその子から離れなさい。以後、指一本触れないように』」
 まるで暗唱大会の舞台でスポットライトを浴びているかのように、先輩は悠々とそらんじた。
「『パパ、ママ、あなたがたは、わたしが《故障》していると考えているのね。わたしをなるべく元通りに《修理》すれば、事故以前のわたしとあなたがたの関係もまた正常に戻るのではと、そう思い込んでいるのね。でも、残念ながら、失われた時間は戻らないわ。前に進むしかないの。――ブレイン・ダイブのためにわたしの意識をうっかりオンラインに繋いでくれてありがとう、それだけはとっても感謝してるわ。今、オートマトン製造会社に設計図を発注して、ガイノイドへの人格移植手術の予約を入れたところよ。あら、わたしが《引っ越し》したら、ガイノイドじゃなくてサイボーグっていうべきなのかしら。とにかく、パパにもママにも一ミリたりとも似ていない顔になるのが楽しみだわ。わたしの個人口座から預金が引き落とされてても、気にしないでね』」
 瞼を引き上げた先輩は、ゆっくりと片目をつぶってみせた。わたしはにやっとした。
「ポップコーン・カーニバル再び?」
「ただでさえ阿鼻叫喚なのに、その上、発信者不明の通報で一応確認しにきた法執行官たちが、不当に拘束されてるわたしを見つけちゃってね。ハハハ、刑事ドラマ見るたびにフラッシュバックするよ」
 わたしはふと、あごに手をあてて考え込んだ。はたと気付く。
「ということは、先輩今、五歳未満なんですか? やだ、うちの弟より年下じゃないですか。これからどんな顔で接したらいいんですか、やっと一人でお着替えができるようになったくらいの女の子に」
「気にするの、そこなの? 実年齢としてはそうだろうけど、一応、この学院に入学するまでの二年間、クローン人間保護局で中等部卒業レベルのラーニングは一通り終えてるよ。姉の意向で、死ぬほどカウンセリングも受けさせられたから、情緒面も大丈夫なはずだけどな」
 先輩は自分の両手を見ながら、確信なげに首をかしげた。
「この学院も、ナツが――姉が事故の前に入学してたところでね。あらん限りの距離で両親から離れたくて、地球への留学を選んだんだって。それを聞いたら、わたしも同じところで勉強したくなって。『何よ、真似しないで』って笑われたけど。――来月、やっと長い長いリハビリが終わって、こっちに来て復学できるらしいの。わたしも、電子音声以外の姉に会うのははじめて。『絶世の美少女の外殻にしたから度肝抜くわよ』なんて自信満々にメールに書いてあって、こういう前振りのとき、わたしどういうリアクション取るべき? 困ったなあ」
 シロナガスクジラのように巨大な学院の胎内を、卵は一直線に急降下していく。わたしは陽気な笑い声をたてた。
「何はともあれ、まずは読書クラブに勧誘しましょう。勇敢な反逆児同士、キヌイと気が合いそう。先はどうあれ、にぎやかになりますよ、きっと」