死んだ弟が、夜な夜な義妹の家の門口に立つという。
生家から知らせを受け、取るものも取りあえず、数年振りに山門をくぐって俗世に戻った。
弟が早世し、ほどなく私の夫も死病に倒れた。力を持つ亡者は生者を祟り、更なる亡者を招くもの。私も、年の離れた弟も、血の濃い巫術者の家系であった。
夫の遺した三人の子どもたちに累の及ばぬうちにと、私は寡婦となると時を移さず髪を下ろして寺院に入った。おぞましい冥府への道連れはひとまず途絶え、一家眷族は胸をなで下ろした――のではなかったか。私一人が世を捨て、夫と弟の菩提を弔うことで、一族から不幸を取り除いたのではなかったか。
なぜ今さら現れた――弟よ。
あのとき、早々に義妹が髪を下ろしていれば、私の夫が死ぬこともなかったのだ――と、囁く声はちらほらとあった。私も、夫の経帷子を縫いながら、微塵も恨まなかったといえば嘘になる。
だが、まだ娘と言ってよいほどに年若い義妹を、しきたりに殉じさせるのは酷というもの。弟との間に子もなかったし、まだこれから新たな婿を迎えることもできよう。四季にあわせて妻室としてふさわしいよそゆきを縫い上げ、夫の衣を仕立て、華やいだ楽しみも味わいたかろう。新床もなじまぬうちに未亡人となった義妹こそ哀れ。そう自分に言い聞かせ、私は、足元にまとわりつく子どもたちを一人一人抱きしめてから、世俗を離れた塚守となることを承諾したはずであった。
なぜ、弟が再び現れるようになったのか。何かが起きたのだ。私が役目を怠ったわけではない。現に、夫の亡魂は私に繋ぎとめられている。夫が災いを為すことはない。
盂蘭盆の頃になると、物寂しい庵室の片隅にうっすらと夫の気配を感じる。
家同士の取り決めた婚姻であった。気のきいた文も、心のこもった贈り物もされたことがない。お互いに、一族から言われるがままにめあわされ、望まれるがままに子をなした。夫自身も注意深く口を閉ざし、周囲の誰も直接私に言いはしなかったが、夫には、私との婚礼以前に、仲を裂かれた女人がいたという。
諦めていた。嘘偽りでもかまわない、せめてうわべだけでも取り繕ってくれればそれでよいと。心中で何を思おうと、私はもはや何も言うまいと。
なのに、亡夫が年毎に訪ねてくるのは私だ――かつて濃やかに心通わせていたという女人ではなく。夏の青い夕闇のこごりに、私のなかに眠る呪者の血が、姿なき夫の香りを嗅ぎとる。じかに触れていた生前より、遠く隔てられた死後の方が、あなたを身近に感じる。不思議なものだ。精霊会が近付くと、そわそわと寺院の井戸を借りて尼削ぎの髪を洗い、へちま水をつけるなどしてしまう。湯文字まで新調してから、ふと自嘲する。仮にも隠棲した者が色気づいて――見苦しいこと。
だが、触れ合いも語らいもせず、ただ時を分かち合って寄り添い合うだけ、獣のごとく交合するのではなし、このくらいは許されるだろう。ただでさえ味気ない侘び住まいなのだ。年に一度くらい、ささやかな密か事があってもよいはず。
弟の影が義妹を悩ませているという知らせを受けたとき、はじめ、私の舌には苦いものが走った。弟も夫のように、手の届かぬ場所に隔てられた連れあいを恋しがって、おのずと引き寄せられているだけではないのかと。ならば、それを厭わしがる義妹は、あまりに無情なのではないかと。
だが、考え直した。この世の外の物事に親しむ巫術者の末裔ではない義妹にとって、死霊の気配など身の毛もよだつ以外の何ものでもないだろう。ましてや、実体があるとなれば平静を失っても仕方ない。弟の死後は交流が絶え、私も寺院に入ってしまったから仔細は知らないが、もしかしたら義妹には新しく通ってくる男がいるのかもしれない。無理からぬことだ。だとしたら、死人となった古い夫が家の周囲をうろつくのは障りでしかあるまい。
久方振りに生家に顔を見せると、両親と姉夫婦に出迎えられた。
三人の子どもたちは、養育を任せている姉の裳裾に隠れて、なかなか私に挨拶してくれようとしなかった。致し方ない、実の母親といえど何年も会っていなければ他人も同然だ。一番上の息子だけ、何かをぼんやりと思い出したのか、しばらくすると恐る恐る猫のように私の膝にのってきた。夫の面影を宿した目元などをとっくりと眺めながら、家を離れた数年前とはまた異なるいとおしさがこみ上げてくるのを感じる。
だが、私のことは忘れてしまう方がこの子たちにとってよいのだろう。死者となった夫同様、寺院に入った私もまた半ば死者のようなものだ。うとうとと眠ってしまった息子を渡すと、義兄は物馴れた手つきで抱き上げた。午睡をとらせに子どもたちを寝間に連れて行くという父と義兄を見送ってから、私は母と姉に向き直った。
「あの子が戻ってきたって?」
眉間に皺を寄せ、母は頷いた。
「骨は洗って墓所に納めたし、遺髪は清めて庭に埋めた。供養もとどこおりなく行なっていたのだが……」
「なぜ、今になって」
「我が家に落ち度がないのであれば、心当たりがあるのは向こうでしょうよ」
手首にまきつけた念珠をつまぐりながら、姉も苦々しく言った。義妹の家の方向に漠然と袖を振ってみせる。
「何か分かったの。なぜ、亡くなってから随分経った今になって、あの子が現れだしたのか」
「亡者は亡者を招くもの」
母は呟くように言った。
「あちらの家で、人死にがあったようだ。それで、あの子が目覚めたらしい」
「人死に? そのわりには、おもてに白い幕が出ていなかったけれど」
「おおやけにできぬ葬りだったそうな。なあ?」
「赤子を流したようね。薬草を使って」
姉が母の言葉を引き取る。私は首をかしげた。
「あの娘に、うちの弟の後に新しく婿が通いだしたということ? だとしたらなぜ水子にするの。めでたいことでしょうに」
「婿であるものか。卑しい下男と通じたそうだよ。聞くところによれば、我が家と縁戚になる以前からの関係だそうだ。ばかにしおって」
母は腹の虫の収まらぬ様子で、膝に拳を叩きつけた。私は茫然として、姉と目を見交わす。
「まさか、あの子の死は……」
「下男と娘が謀ったものなのですって。こんなことになるとは思いもしなかったって――向こうの家を辞した侍女に金を掴ませて聞き出したのだけれど」
言葉を失った私のなかに、抑えがたい濁流のような怒りが逆巻いた。耳の底でどくどくと流れる血の音が聞こえるようだ。一針一針、突き上げてくる思いを噛み殺しながら経帷子を縫ったことを思った。夫を喪った悲しみも癒えぬうちに、子どもたちとも引き離され、山門の奥に埋もれ暮らしたこの年月のことを思った。私の腕からもぎとられていったもの。私の膝に戯れかかる、物言わぬ夕闇。
「私に何をさせたいの、母様、姉様?」
短く切り揃えた髪が頬になびくのを振り払い、私は静かな声で問うた。
「そのために呼び戻したのでしょう」
二人はしばし沈黙し、やがて口火を切ったのは母だった。
「そしらぬ顔をして、向こうの家を訪ねておくれ。出家した姉が弟を成仏させたく香を上げにきたと言えば、怪しまれることもなく喜んで迎え入れられるだろう。上がり込む前に、『己のような世離れた者が家中に入ってもよいか』と三度尋ね、三度『よい』と答えさせよ。必ず、あの娘、あの娘の父母と顔を合わせ、言葉を交わすのだ。くだんの下男には、特に念入りに目印を残すように。我が一族を愚弄した者たちには、相応の報いを受けさせねばならぬ。最後に、帰り際、あの家の門口で針を落としなさい。くれぐれも誰にも見つからぬように。それで充分だろう。お前が道筋を作れば、あとは死霊が為すべきことを為す」
音もなく立ち上がると、姉が針山から古びた縫い針を引き抜いた。赤黒く錆つき、もはや夫や子の衣裳を縫うにも役立たぬ死骸の針、けれど物狂おしく独り語るような鋭利を秘めた一本の針だった。
今度は、道連れを間違うのではないよ、と私は胸のなかで弟に向かって囁く。