異物Jは奏でる

 お聞きください、先生――わたしは、恐ろしいことをしました。
 友人Jを食べてしまったのです。
 ええ、ええ、順を追って説明致します。
 誰かが、私のグラスに、薬を。おそらくは、いつもの週末の、いつもの店の、いつもの仲間内の悪ふざけのつもりで。あるいは、嫌がらせのつもりで。もしかしたら、J自身がそうしたのかもしれません。罪のない景気づけのつもりで。
 そういう人です。
 ずいぶん辛気臭い顔で飲んでるな、とカウンターに新しい酒を取りに来たときに、一人で止まり木にいるわたしをそう茶化しましたから。うるさいよ、とわたしは唇を歪めながら言い返した覚えがあります。
 わたしが軽口を叩けるのはJだけです。あの顔ぶれに混じっているのも、社交的なJに引っ張り込まれたからです。そうでなければ、わたしは彼らの仲間になどなれません。仲間内でも、未だにわたしに話しかけようとしない者もおります。
 当然でしょう。誰がわたしのような種族に近付きたがるでしょうか――Jだけです。Jだけでした。わたしの素性を知っていながら、何の気負いもなく、わたしを友人だと言ってくれるのは。
 そういう人です。
 あの、左のソファで脚を組んでる、芸術的なターコイズ・ブルーの巻き毛、どう思う? とJは思わせぶりにわたしに尋ねました。バーテンに酒を作らせている間。わたしは根の生えたように止まり木に腰掛けたまま、ろくに見もせず、ナイロン製じゃないかな、と申しました。
 別に髪の素材を聞いたんじゃないさ。まあ髪もだけど、触角混じりの髪から足の水掻きまで全体についての考察だよ、とJは上機嫌に笑いました。あの種族の雌性体には産卵管があるそうだけど、あの子はどうなんだろう。同類のにおいを感じる――雌雄同体、ああ見えて意外と雄性体寄りかもしれないけど。決めた、今夜はあの子の部屋で過ごすことにする。口説くのはこれからだけど。
 そういう、人です。
 困った博愛主義者です。
 そんな人だから、わたしを同居人になどできるのです。
 一人で生きるつもりでした。一人にはいささか広すぎる部屋で、一人にはいささか高すぎる家賃でも、何とかやりくりしながら。そうする以外に道はないと思っていました、わたしのような種族の出身者には。誰がわたしに近付きたがるでしょう。危険な種族と同じフラットで、寝起きしたいと思うでしょう。
 ――島船、というものをご存じでしょうか。
 家族で海水浴に出かけて、寄せては返す波と戯れて、砂が濡れた足に張り付いて、笑い声をたて、なごやかに遊んでいても、よく晴れた水平線の向こうから島船が現れると、ビーチは即座に軒並み封鎖されます。人々は海岸線に近付かないように通達されます。島船の住人とはくれぐれも接触しないよう、ひっきりなしに耳障りなサイレンが鳴らされます。船が陸と水や食糧を取り引きし、給油している最中ずっと、沿岸警備隊は睨みをきかせておりますし、港湾の砲台は残らず船に狙いを定めております。寄港自体を許可しない国も多いと聞きます。
 海上に隔離された移動式の鋼鉄の島。その一隻に、かつてわたしは生まれました。雄性体の一人として。
 島船で生きる種族の繁殖はいささか特殊です。食べるのです――雌性体が、雄性体を。食らうことによって精嚢を体内に取り込み、産むのです。
 これまで、ずっとそうしてきました。そして、それゆえに、陸地の大多数の種族からは忌み嫌われてきました。時として、恋に我を忘れた雌性体は異種族だろうと構わず嚥下してしまいますから。
 わたしの父は、研究のために危険を冒して乗船してきた生物学者だったそうです。素敵な人だったわ――と、母はよくうっとりとして、幼いわたしに言い聞かせたものでした。
 視力が低いのに眼鏡の度が合っていなくて、よく目をすがめて物を観察していて、指先はペンのインクで真っ黒になっていて、分厚い本を何冊もトランクに詰め込んでいて、左肩を下げて歩く癖があって、海風になびく栗色の髪がなめらかで、どんなに話しかけても一度も口をきいてくれなかったから声を聞いたことはなかったけれど、でも――とても美味しかったわ、と。
 あなたもいずれ食べられてしまうのね、と甘美な思い出に浸っていた母は、少々悲しげにわたしを見やりました。素敵な女の子に食べられるのよ。私と仲良くできるような、気が合いそうな子がいいわ。この次もきっと、可愛い栗色の髪になって生まれてきてね。私、またあなたをゼロから育てたいのよ。そうするには、あなたは誰かに食べられなくてはね――
 隣家に、Qという雌性体がいました。わたしよりほんの少し、年上だったでしょうか。
 Qの母は、種族のなかでも奇妙な嗜癖を有する雌性体でした。彼女は、自分が産んだ雄性体を次々と食べてしまうのです。食べては産み、また食べては産むのです。近親の上に、時には、まだ生殖内臓が未成熟な個体も食べてしまうので、しょっちゅう島船の管理官の雌性体たちに厳重注意をくらっていました。それでも我慢できないと言うのです。食べたくて、産みたくて、堪らないと言うのです。産んでは食べ、食べては産むことで、自分が偉大な螺旋になったようだと、血走った目をした要注意雌性体は答えていたそうです。
 そんな母体の子宮から、Qは生まれ落ちました――精嚢を持つ雄性体ではなく、雌性体のQが。偉大な螺旋は途切れました。行き場のない濁流のような怒りは、すべてQに注ぎ込まれました。
 無傷のQを見たことがありません。常に、身体のどこかに痣があり、包帯が巻かれ、ギプスをしていました。四肢に支障のないときは、顔面が大きく腫れ上がっていました。Qはしょっちゅうわたしと母の部屋へ逃げ込んできました。意味のとれない雄叫びをあげて追いすがってくるQの母を、わたしの母が玄関でのらりくらりとかわしている間、Qはわたしの寝台の下に潜り込んで震えていました。わたしは寝台の前に父の遺した蔵書を積み上げて、何度もQの姿を隠してやったものでした。
 ある夏の夕暮れのことでした。Qは珍しくどこにも怪我をしていませんでした――少なくとも、見える範囲には。母親のクローゼットからくすねてきたのか、花柄のワンピースを着ていました。あちこち擦り切れていましたが、それはQによく似合っていました。取り分け、青痣のないすんなりとした長い手足に映えて、リボンの垂れた麦藁帽子を被ったQはおとなびて見えました。
 誰かと思った、とわたしはさして深く考えずに述べたような覚えがあります。汗ばんだQは嬉しそうに歯を見せて、わたしの両手を握りました。熱を孕んだ風に吹かれて、よろめきかけたわたしに、雌性体Qは影のようにすっと寄り添って囁いたのです――あなたが食べたいの、と。
 わたしは島船から逃げ出しました。
 危険度の高い雌性体であったなら、条約に定められた隔離区域からの脱走は見つかり次第射殺されてもおかしくはありません。けれども、わたしは雄性体でした。幸いなことに、陸地にはわたしに対して同情的な意見も少なくありませんでした。島船は送還を求めましたが、わたしの身柄を確保した沿岸国の議会は、結局わたしを亡命者と見做してくれました。わたしは生まれてはじめて、島船の外の暮らしを知ったのです。
 雄性体とはいえ、わたしは遠巻きにされました。当然でしょう。わたしがいかに無害であろうと、母や姉妹や伯叔母が人喰いである種族に近付きたい者がいるでしょうか。わたしは、食われない自由と引き換えに、孤独を得ました。閉塞した島船の外、広々とした世界でたった一人という、途方もない孤独を。
 友人Jと出会うまでは。
 自堕落な人間です。享楽的で、刹那的で、先のことをちっとも考えようとしません。もっと物事に対して警戒心を抱いてほしいと、わたしは自分のことを棚に上げて思うのです。でも、優しい人です。この上もなく。
 そういう人です。
 そんな友人Jを、食べてしまったのです。
 どうしたらいいでしょう、先生。
 誰かが、わたしにこっそりと薬を。宣言通りJがターコイズ・ブルーの巻き毛を首尾よく浮き立たせ、絡み合うように店を出て行った後、わたしもさっさと勘定を済ませて、帰路に着きました。そもそも、Jがいなければあの集まりに顔を出す義理もないのです。
 夜道の途中で、足がふらつくのに気付きました。ゴミを漁っている野良犬には五つの黄色い目があり、街灯はどれもひしゃげて蛇のようにのたくり、夜空は油膜が張ったように極彩色の虹でいっぱいでした。遅効性の幻覚剤のようでした。泥のように意識が中空にとろけだすのを押しとどめながら、フラットに帰り着きました。今晩Jは帰ってこない。下品なターコイズ・ブルーの夢に縺れて、帰ってこない。
 どこへ向かうか予想もつかなかったわたしの足は、何の躊躇いもなく、Jの部屋に侵入しました。
 Jが愛用している香水の残り香に取り巻かれて、ますます訳が分からなくなりました。
 壁の釘に引っ掛けられていた埃まみれのドライフラワーを指先で抓みあげると、山羊のようにむしゃむしゃと食べていました。本棚から引き抜いて、Jがしょっちゅう重そうに抱えている医学書を、一枚一枚ページぞんざいに毟り取りながら口に運びました。コンタクトレンズを常用しているために、部屋に置き去られていた眼鏡を、がりがりと咀嚼していました。
 何してるの? と背後から声がしました。
 Jが目をしばたたかせながら、立っていました。
 いいところで振られちゃってさ、と気抜けたように言いながら、Jはわたしに荒らされた自分の部屋を見回しました。ぼろり、とわたしの口の端から眼鏡のつるの残骸がこぼれ落ちました。Jは澄んだ目でわたしを見ました。Jを見るわたしの目は、どんな色をしていたのでしょうか。
 友人Jを、食べてしまいました。
 食べても、産めないのに、わたしは。
 巡り続ける螺旋は存在しません。わたしで行き止まりです。わたしに食されたJはわたしのなかにとどまり続け、肉はとろけ、血は吸収されても、象牙色の骨だけはわたしの腹のなかに残り続けます。ほら、聞こえるでしょう、先生、Jの骨が、わたしのなかでこすれあって軋む音が――
 そんな音がするわけがない? 何をおっしゃるんですか。
 わたしは最後までJを呑み込みきれず、気を失っているJを吐き出して、泣きながら救急車を呼んだと?
 Jは胃液で皮膚に軽度の火傷を負っているが命に別条はなく、じきに退院できる?
 そんな馬鹿な。信じません。あなたはでたらめを言っているんだ。
 それじゃあ、今もわたしの腹のなかで軋み続ける、このJの声は何だというんです。わたしは友人Jを食べたのです。間違いなく食べたのです。Jはわたしのなかにいるのです。どこにも行きません、ここ以外のどこにも。だって、聞こえるのですから。
 お聞きください、先生――どうか。
 聞こえると言え。