俎上

「お義姉さんったら、またお池の錦鯉を食べちまったんですって」
 秋刀魚の塩焼きを箸先でむしりながら、上の姉がやりきれないといった調子で憤った。
「弱ったねえ、あの人にも」
 皺ばんだ両手で湯呑みをくるみ込むようにしながら、母もため息を吐く。下の姉は、目を三角にして卓袱台に身を乗り出した。
「母さん、ぴしゃりと言っておやんなさいよ。こういうときは、姑が強く出なけりゃだめよ」
「そうは言ったってねえ、お前……」
 飯櫃からお代わりをよそった茶碗を女中から受け取り、食卓に向き直った彼は、三人の女の針のような視線が自分に集まっていることに今更に気付き、たじろいだ。
「何です」
「準次さん、ちゃんと聞いていて? お義姉さんのことよ」
 女所帯のかしましいお喋りに、末息子である彼が蚊帳の外なのは昔からだ。父も兄も無口なたちで、食べ終わるとそそくさと席を立つので、ぺちゃくちゃと喋ってばかりで箸の遅い母や姉たちが、いつも飯粒の硬くなるまで、汁物の冷たくなるまで、何時間でも夕餉の席に居座っていた。洗い物が片付きやしない、と台所の女中がよくこぼしている。
「せめてお父様が生きていらしたらねえ、何とかしてくだすったろうに……」
 母がしょぼしょぼと涙ぐむ。
「まあ、おかわいそうに、お母様。何とも思わないの、準次さん」
 大仰な手つきで母の肩を抱きながら、上の姉が彼を睨みつける。
「今はあなたがこの家の跡取りなんだから、あなたがお義姉さんを何とかなさい。いいわね?」
 居心地の良い己の席から一寸たりとも尻を動かそうとせず、下の姉は命じる。


 母屋から建て増した離れに、兄と嫂は暮らしていた。
 新築特有の、すがすがしい木材の匂いを、彼は昨日のように思い起こすことができる。腰の重い女たちの体臭が染みついた母屋にはない、清新な香気に、幼い彼は目をくるめかせる。あどけない弟をほほ笑みながら見守る、物静かな兄と淑やかな嫂の姿を、ほんの数瞬前の出来事のように、瞼に蘇らせることができる。
 無残な茅屋となりはてた離れに、人影はなかった。
 前栽に回った彼は、堤をめぐらせた池のなかに嫂の後ろ姿を見つけた。
 膝まで池の水に浸して、彼女は放心していた。
「風邪を引きますよ、お義姉さん」
 注意深く呼びかけると、彼女はのろりと振り返った。硝子のように澄んだ瞳には何も映っていなかったが、条件反射のように嫂はほほ笑んだ。
「正一さんが帰ってくるのを、待っているの」
 彼はかぶりを振った。
「……家に戻りましょう。身体を冷やしちゃいけない」
「中は、いや。息が詰まりそうになるんですもの」
 嫂は、むずかる子どものように身をよじった。
「じゃあせめて、池から上がりましょう。庭で着物を乾かしながら、兄さんを待とうじゃありませんか」
 池に向かって手をさしのべると、彼女は気の進まない様子で目を泳がせたが、やがてこちらに向かってよろよろと歩き始めた。絡みあう藻を掻きわけながら嫂が戻ってくるのを、彼は水際に立って待ち続ける。
 彼女は、はだけかかった胸に何かを抱え込んでいた。流血した赤子を抱きしめているように見えて、彼はぎょっとした。違った。まるまると肥えた緋鯉が、枯れ枝のような女の腕のなかでぐんなりと息絶えていた。