雪天蓋の世界

 少女は、硝子のコップを叩き割るのを好んだ。
 なみなみと注いだ水が、硝子の破片と一緒にぶちまけられ、病室がめちゃめちゃになるのをことのほか喜んだ。
 どうしてこんなことをするのかと、新人の看護師に詰問されているところに出くわしたことがある。女は、シンプルな責任感に衝き動かされているかのような、青臭くて健やかな目をしていた。驚くことに、看護師は本当に胸を痛めていた。少女のとる行動が、心底理解できないらしかった。その疑問はまっとうで、女がのたまう正論と同じくらい、文句のつけようがなかった。
 だが、少女は当時、その看護師よりもずっと年少だったというのに、怖じ気づきもせず、怒れる女を見返した。あどけなく老いさらばえた目をして、病床からまっすぐに。それが、少女なりの誠意であったから。
「これは、仕返しなのよ」
 少女は、目をそむけることなく、硝子と水が飛び散った床を指差した。
「これは、神様が私の体にしていることと同じこと」
 看護師がどんなふうに少女の答えに応じたか、わたしは覚えていない。理由になっていない、たぶん、そんな言葉だったと思う。いつまでも甘ったれた子どもでいるのはよしなさい、そんな叱責だったかもしれない。
 いずれにせよ、公正に憤る女の怒号が病室にこだまする外、わたしは見舞いの花束を抱えたまま、少女をかばうことも、女と一緒になって正義を盾どることもなく、ただ生来の卑怯さをいかんなく発揮して、廊下で右往左往していたから、よく聞いていなかったのだろう。その花束を生けた花瓶も、長くはもたずにすぐに病室の壁に投げつけられて、硝子の破片と濁った水と青臭い茎を振りまいた。
 結局、硝子のコップを叩き割ることを好んだ少女は、大人になることはなかった。永遠に、なかった。わたしの記憶のなか、彼女はずっと子どもの姿でいる。今でも、どこかで硝子の割れる音を聞くと、彼女が勢い良くコップを振りかぶったときに起きる微風を、わたしは幻のように思い起こせる。
 彼女が最後に迎えた誕生日に、わたしはスノードームを贈った。たぶんすぐに割られるだろうと思ったので、安物にしておいたことを覚えている。安い値段だったわりに細工が凝っていて、精巧に飾り付けられた樅の木とのんきな雪達磨が、透明な溶液に浸っていた。軽く振ると、小さな硝子の世界は模造の雪に吹雪かれた。
「壊し甲斐があるだろう?」
 確か、そんな言葉を掛けた。そうね、と病床で包装紙を解いた彼女は、笑ってみせたのではなかったか。振りかぶる真似もしてみせた。彼女の痩せ衰えた手のなかで、小さな冬の世界に、白銀の雪がかしましく舞い踊った。
 彼女は、永遠に子どものままだ。永遠に、幼く暴虐な神だ。
 茫然としたまま、彼女のいなくなった病室を片付けているとき、枕元の棚に何かが仕舞い込まれているのに気付いた。空っぽの引き出しからただ一つだけ、転がり出てきたのは、あの安物のスノードームだった。
 床に叩きつけられることもなく、壁に投げつけられることもなく、硝子の表面は一点の曇りもなく、滑らかに澄んでいた。まるで、わずかな傷さえも恐れるかのように、古い包装紙が厳重に巻かれていた。そっと押し包まれ、大切に守られていた。何度も何度も取り出したり仕舞ったりしていたのか、紙は皺だらけになっていた。
 まじまじと覗き込んだ、壊されずに遺されたちっぽけな銀世界が、ふいに滲み、歪んだ。わたしは、壊してしまいたいと思った。おびただしい涙の溜った容器のような自分を、彼女のいた病室の底で、粉々に叩き割ってしまいたいと思った。しかし、破壊と救済の神はもはやどこにもおらず、みじめなわたしの手には、わたしの目には、偽物の雪が降る、矮小な模造の世界だけが残された。