寄宿舎には、季節の移り変わるごとに、入れ代わり立ち代わりやってきては立ち去っていく、無数の女生徒たちの体臭が、澱のように堆積している。そこに居座る最後の一人が、わたしであった。気乗りのしない手つきで、寝台の上でだらしなく口を開けたトランクの空白を埋めながら、その空白に書物一冊分の猶予があることを知った。図書室へ繋がる廊下を急ぐ。
秋の講義はとっくに終了しており、待ちに待った休暇に、生徒たちはそれぞれの部屋の隅から無骨なトランクを引きずり出す。そして、雪のちらつく車窓を横目に、我先にと家路を急ぐのだった。わたしの元にも、早く帰って来いという矢の催促が、姉の筆跡で毎日のように届けられる。
蜘蛛の子を散らすように学生たちが駆け去り、人気のなくなった学園は、日の射さない墓地のように素敵だ。永遠にこの時間の内部に封じ込められていたいと夢想する。数知れない学生たちの喧騒はああまで憂鬱であるのに、不思議なことだ。この冬が、終わらねばよいのに。
姉のしたためる手紙の文句は、日に日に荒々しさを増してゆくように思われる。わたくしは今、あなたのために膝掛けを編んでいるのよ――お母様が、あなたの戻る日を毎朝のようにお尋ねになるの――お父様もあなたの帰省を心待ちにしておられます――早くしないと線路が雪で埋まって汽車が動かなくなってしまうかもしれなくてよ――あなたごと学校が雪崩に押し潰されるかもしれないと思うと、わたくしは夜も満足に眠れません――我が家の暖炉ほど暖かい場所はないのよ――お前の猫が、毛糸玉を追いかけて火掻き棒に頭をぶつけて、片方の目玉が濁ったわ。足下もふらついているの。見ていられないわ。
なんと可愛そうなわたしの猫よ!
三年前、肥溜めで力なく鳴いていた子猫には、まだへその緒がぶらさがっていた。洗っても洗っても、子猫の目から卑しげな光は消えず、毛皮にねばりついた人間不信は落ちることがなかった。わたしはそんな子猫を心から愛した。過剰に盲愛した。誰からも愛されないような汚点が、尽きることを知らないわたしの愛の対象であった。わたしからしか愛されない。わたししか頼るもののない。わたしに依存するしかない。瀕死であるからいとおしく、弱々しいから慈しまずにはおれず、病んでいるから愛くるしい。
わたし以外の誰が、厭わしいお前を悪臭と汚濁のなかから拾い上げただろう? いったい誰が? そう粘っこく囁きかけても、猫はわたしに愛情を返すことはない。わたしのむくんだ指に引っかき傷だけ残して逃げ去ってゆく。猫は誰も信じない。誰に懐こうともしない。わたしにさえも、だ。そんなところが、更なるわたしの愛を、貪欲に掻き立ててやまない。
家族の暮らす屋敷に残してきたお前を、ここへ連れてきたいものだ。この人気の絶えた墓地のような冬に。柩のように暗く穏やかな無人を見渡し、お前の瞳孔が嬉々として開くところが見える。この廃墟の楽園を、お前もきっと気に入る。この泉のような沈黙に、お前はきっと愛情を覚える。お前とわたしは似たもの同士だから。純然たるけだもののお前は、残念ながら敷居をまたぐことすら許されないけれども。なんと憐れなこと。
彫刻の施された図書室の扉が、軋みながらわたしを招じ入れる。
人影はなかった。ここにも更なる死の季節がわだかまっていて、わたしを興奮させる。
トランクの余白に詰め込むために、とびきり重厚で難解な本を借りよう。何度読み直そうと解き明かせぬような。何よりも心やすらぐ冬の断片を、傍らに連れて帰るのだ。気詰まりな炉端をやり過ごすために。暖かいところでは息ができない。笑いさざめく家族の団欒に、その言外の圧に、参加しなくてよい口実をこしらえるために。
氷のように冷えきった書物の聖地で、無防備に巡礼していた足を、ぴたりと止める。
誰もいないはずの場所にいる誰かのことを、何と呼ぶ。
相手は座したまま動かず、その空間に闖入したのはむしろわたしの方であるはずなのだが、わたしの脳裏には侵犯されたという意識が閃いて流れた。足音が聞こえてしまったのか、きびすを返す間もなく、視線がふいとこちらに向く。まるで狙いすましたかのように、死角になっていた書見台に、ぽつねんと腰を下ろして、静かに眺められる。
「……君のこと、知っている」
挨拶代わりにぼそりと口にされた呟きは、奇妙にしわがれていた。声変わりか? いや、自然にこんな声になるはずがない。声の限りに叫び、潰したのか。何かしらの取り返しのつかない亀裂が、その音色を痛々しくくるんでいた。だが、語尾にはまだ辛うじて蜂蜜のような幼さがあった。
「そう?」
その発語を皮切りに、無理に頭を切り替える。わたしの肺腑に渦巻く暗い冬を悟らせるわけにはいかない、断じて誰にも。誰にも、だ。
「何かの授業で一緒だったかもしれないわね」
襟元まで折り目正しく、几帳面に制服を着込んだ少年に、見覚えはない。と同時に、校舎のどこかで見かけた覚えもある。黒く沈んだ制服をまとっていると、皆同じ顔に見える。公平な、没個性的な、互換性のある、取り替えの効く、何者か。
「帰らないの?」
非難をあらわにする愚は犯さなかったとは思うが、気付いたらつい尋ねてしまっていた。初対面か、ろくすっぽ言葉も交わしたことのない間柄らしからぬ、馴れ馴れしい彼の口調がそう言わせたのかもしれない。どうして、もう誰もいないはずの廃墟に、まだ居残っているのだ。わたしだけの沈黙のなかに。わたしの最後の楽園に。
「君こそ」
わたしの問いには答えず、少年は小さく笑ったらしかった。理不尽なわたしの憤りを、耳聡く察したのかもしれない。
「トランクの取っ手をねずみに齧られて、帰れないのよ」
無傷のトランクを思い浮かべながら、わたしも薄くほほ笑んでみせる。芝居がかった口振りで。嬲られているなら、わたしだけが誠実である必要もあるまい。
「ああそれ、実は僕が壊したんだ」
少年は平然として、空想上のわたしのトランクを破壊してみせる。
「そうだったの。酷い奴」
「僕は、トランクなぞという上等なもの自体、はなから持ってなくてね」
わたしたちはまるで、十年来の旧友のように言葉を交わしていた。十年来の友情! 十年前のわたしはちぎりやすげな肉とぐねぐねとした骨の集合体でしかなかったし、そんな執念深い絆をわたしは本のなかでしか知らない。読んでいた本を閉じながら、少年は俗っぽく目を細めた。
「僕一人だけが帰れないなんて、業腹じゃないか? 誰かを巻き添えにしないと気が済まないだろ」
わたしは、人と言葉を交わしていて、珍しく愉快な気持ちになってきた。
ことに、いかにもこの学園にふさわしい、良家の子女然とした少年の立ち居振る舞いにそぐわない、野良犬のような目つきが気に入った。どんなに飾りたてようと、どんなに恵まれようと、どんなに躾けられようと、目は生来の魂を垣間見せる窓だ。生臭い残飯を平然と漁る野犬の目だ。何かの手違いによって、清らかな天上人たちの巣窟に紛れ込んでしまった虫けらの目だ。
「どうしてトランクを持っていないの?」
試すように見下ろすと、少年は息をするようにすらすらと話を作った。
「実は、僕は私娼窟の捨て子で、宿場町の飼い葉桶で寝起きしてた。ある日、四頭立てのぴかぴかした馬車が通りがかった。この学校へ入学するために、貴族の坊ちゃんが乗っていた。僕は草刈り鎌で彼を殺して、彼の絹の服を盗んで、何食わぬ顔で彼の馬車に乗り込んだ。誰も気付かなかった。丸裸の彼の死体をトランクに詰めて、道中の橋の上から川へ放り捨てた。だから、僕はトランクを持っていない」
少年は悪魔的に無邪気な表情をして、天使のように笑った。そして、両手の指を絡め合わせながら意味ありげにわたしを見た。
「どうして君は図書室に来たの?」
わたしの番、というわけか。
「……図書館を作るの。わたし一人のためにだけ存在する図書館を。わたしのためだけに読まれる本で、周りを囲ってしまうの。いずれは出入り口まで本でふさいでしまうつもり。天井も、床板も、窓も、暖炉も、食卓も、ハンモックも、寝台も皆、本で埋めてしまうの。だって、食べたり、眠ったり、笑ったり、生きたりする必要なんてないでしょう? 誰も入れてやらない。わたしも出てゆかない。そうして完成するの。そのための材料を、盗みにきたのよ」
「たいへんだ。僕の目の前に泥棒がいる」
おどけたように少年はのけぞってみせた。
「殺さなくてはね」
愉しくて愉しくて、油断したわたしの唇から冬がこぼれてしまう。
「そして、あなたの死体を本棚に詰めて、火へ投げ捨てるの」
少年は動じず、わたしを眺めながらにやにやした。わたしは、水銀の鏡を見ているような錯覚に陥った。鏡越しに、自分の目を覗き込んでいるような錯覚に。
「何を、読んでいたの」
「これ?」
少年は、左手で手元の本をつついた。人差し指の爪だけが異様に伸びていた。その爪に切り裂かれるところを想像して、隠しきれないくらい頬が熱くなった。
「これは、僕の姉が書いた自叙伝なんだ。彼女は、文壇では有名な閨秀作家なんだよ。家庭小説を得意にしている」
「あら、あなたは私娼窟の捨て子ではなかった?」
「そうだったっけ。ええと――僕の姉は、僕の母でもあるんだ。おかしな話だって思うかもしれないけれど、そういうものなんだから仕方がない。神話や古典悲劇じゃありふれた系譜だ。姉であり母である女は、必死で僕を生むまいとしたんだけれど、彼女の意に反して、孕んだ腹はどんどん膨れていく。それでも生むまいとする。胎児である僕はどんどん育っていく。彼女は頑として僕を押さえつけて圧し潰そうとする。我慢比べみたいなものだったね。三年ほど、僕は彼女の腹に飼われていた。けれども限界がやってきた。そして、彼女の羊水にまみれながら産声を上げるやいなや、僕は投げ捨てられた。ごみのようにね」
美しく装丁された本をなじるように、少年の薄い鈎爪が食い込む。
「この本のなかに、僕の話が出てくるんじゃないかってずっと探してるんだ。彼女の人生に、僕は存在したはずなんだ。でも、もう三度も読み直してるけど、見つからない。どの章にも、どの頁にも。まだ見落としてるんだ。きっとどこかにいるはずなんだ。いなくちゃいけない。存在するはずだ。見つけられないだけで。僕は、このなかに、必ず」
少年の舌から撒き散らされる冬に、爆発するように胸が高鳴る。
「僕はへその緒も切り取られないまま、彼女に放り捨てられた。肥溜めのなかにね」
わたしは、陶然と棒立ちになる一方で、無意識に後ずさろうとしている。
わたしに残された最後の生への執着が、わたしをここから駆け去らせようとする。暖炉のぬくもり。手紙の束。旅支度の済んだトランク。汽車の切符。でも、わたしはもうどこへも帰れないことを知っている。だって、出口も入り口も、ふさいでしまったのだから。盗んだ本で。この手で。
「火掻き棒なんかにぶつからない」
少年は、喉を鳴らすように粘っこく囁く。
わたしは真正面から彼を見つめる。睫毛に縁取られたその端正な右目を覗き込む。その収縮する瞳孔が、もはや二度と光を映すことのない、どんよりとした灰色に濁っているのを、魅入られたようにわたしは見つめる。
「編み棒の先で、突き刺されたんだ」