シェヘラザードの黙想

 博士はいつも、午後四時きっかりにわたしの部屋にやってくる。
 前に一度、時計をじっと見つめながら待ちかまえたことがある。尖った短針がアラビア数字の4を指さし、長針と秒針が天を向かって寸分違わず折り重なった瞬間、狙いすましたように部屋のドアはノックされた。
 博士のノックは、決して乱暴に拳をぶつけるものでも、躊躇いがちにうかがいをたてるものでもない。耳をくすぐるようにさりげなくて無駄がなく、すみずみまで神経の行き届いた美しいノック。
 博士ほど几帳面な人を、わたしはほかに知らない。どんな些細な物事に対しても、彼は当然のように万全を期す。時刻にせよ、ノックにせよ。何ものも、決しておざなりには扱わない。まるで、手を抜くということを知らないかのように。生まれてこのかた、誰にも教えられなかったかのように。
 彼にも、肩の力を抜いて弛緩するひと時というものはあるのだろうか? あるとするなら、それはいつ、どこでのことなのだろう。想像しようとしても、うまくいかない。わたしはいつも、午後四時きっかりにわたしの部屋にやってくる博士しか知らないから。
「何を読んでいたんだい?」
 彼が来るまでの時間潰しにと本を開いていたわたしに、後ろ手にドアを閉めた博士はそう尋ねた。
「製本職人の物語です」
「どんな話?」
「主人公は、来る日も来る日も、工房に持ち込まれた小説の紙束を綴じて本にしているんです。でもある日、そんな退屈な作業を続けているうちに、ふと魔がさして、わざとページを入れ替えて本を綴じてしまいます。ところが、そうして前後が狂ったまま世間に出回った本が、正しい順番にページの並んだ本よりも面白いと評判になる」
 博士の目を見て説明しながら、わたしの右手は無意識に本の表紙をなぞっている。
「製本職人は、ほかの本のページも次々に狂わせていくようになります。彼の悪行はエスカレートしていき、だんだん一冊の本をいじるだけでは飽き足らなくなって、別の本から抜き取ってきたページを縫い合わせ、キメラのような新しい本を制作することに取り憑かれていきます。彼は製本職人ではなく作家と呼ばれるようになり、虚栄心を満たします。けれども、彼に自作をめちゃめちゃにされた作家たちが工房に原稿を持ち込まなくなると、彼は途端に本を作り出せなくなって、発狂してしまう。そんな物語です」
「皮肉な話だ」
「そうですね」
「けれども、その本もまた、異端の製本職人が継ぎはぎしたキメラかもしれない」
「まさか」
 ぎこちなくほほ笑んでわたしが本を置いたのと同じ卓上に、博士は持っていたトレーをのせて、わたしの向かいの席に腰掛けた。
 トレーの上は、それぞれにさまざまな果物を盛った数枚の皿で占められている。示し合わせたようにどれも同じデザインで統一された透明な硝子の器で、果物の色彩がみずみずしく際立って見える。
「さあ、食べるといい」
 わたしの前に置いたトレーを示しながら、博士は言った。わたしは頷き、添えられたフォークを取り上げる。それを一皿目の果肉に突き刺したわたしを眺めながら、博士はこう続けた。
「君が、読書に精を出してくれているようで嬉しいよ。語彙の増大を図るには、古典的だが能率的な方法だからね」
 噛みちぎった果物を黙々と咀嚼しながら、わたしは博士の声を聞いている。言葉はするりと耳元を通り過ぎてゆき、彼の抑制された穏やかな声だけが鼓膜にしみこんでいく。
「わたしの二番目の大伯母は、実に無口な人でね。わたしは幼くて、あまり事情は知らなかったが、彼女も学者だったらしい。内に閉じこもり、深化していくタイプの学者だったようだね。わたしはよく彼女の家に預けられていたのだが、言葉らしい言葉を交わした覚えがまったくないんだ。挨拶一つ、返ってきた覚えがない。わたしはこっそり忍び込んだ彼女の書斎で、学術的な書物の薫陶を受けたけれども、彼女のように口を閉ざしたままではいけないのだということも学んだ。沈黙というのは甘えだよ。妥協は何も生み出さない――さて、どんな味がする? 答えてごらん」
 それは質問ではなく、命令だった。
 果肉を喉へ追いやるように嚥下し、わたしは命じられるままに口を開く。
「牡丹雪のような舌触りがします。暗い冬空を埋め尽くすように降り注いでくる雪。けれども決して積もらない雪。空気を含んでふんわりと柔らかいけれど、その一方でなまめかしく濡れている。死んだ父親が教えてくれたことがあります。昔、雪は蒸発した海水の塩分によって結晶化していたのだけれども、今は空気中の有害な煤塵で結晶を形作っているのだと。だから、絶対に口に入れてはいけないのだと。毒素を含み、そうでありながら清らかで穢れなく見える、色のない色。父の言いつけを破って、隠れて口に運んだ雪片の味。この果物は、その背徳感を思い起こさせます」
「お父さんはなぜ亡くなった?」
「自殺です」
「そう。さあ、次だ」
 博士は、まだ食べきっていない皿をさっと取り上げ、わたしの手の届かないところまで遠ざけてしまった。博士の手に渡った皿の上で、わたしの歯型の残った果肉が不安定にぐらついている。それを無感動な目で見つめてから、わたしは二皿目の果物にフォークを伸ばした。
 博士は語り出す。
「わたしの父は染色家だった。母は機織り職人でね。夫婦揃って色彩に取り憑かれたような人たちだった。理想の色合いを求めて、しょっちゅう東南アジアを飛び回っていたよ。空気が肌に合ったんだろうね。亜熱帯の森に乗り込んで新種の昆虫の体液に糸を浸したり、火葬の灰が流されて水葬された死体がそこかしこに浮かぶ河で布を洗ったり、とにかく、その熱心さだけは評価に値するような両親だった。何をおいても、自分たちが布地の上に生み出す芸術に命を賭けている人たちだったからね。だから、子どもにまで手が回らなかったのも仕方がない。彼らが、血を染色に使うために稀少動物を殺したかどで、とある島国の法律に則って死刑に処されるまで、本当に数えるほどしか会ったことがなかった――今度はどうだい。どんな味がする?」
 わたしは、べたべたと唇にまとわりつく果汁を舐めとった。
「飴玉を噛んでいるような、熱にとろけるような、でもしたたかな歯ごたえです。喉が痛いと訴えたとき、保健室の先生がくれた飴を思い出します。あれは、学校でひどく発熱したときのことでした。担任の先生が家に電話をしてくれたのですが、あいにく留守らしく、誰も出ませんでした。ふらつく足で一人で早退しました。ランドセルがひどく重たく、肩に食い込んだことを覚えています」
 わたしは語り続ける。
「熱っぽい舌で貰った飴をしゃぶりながら、家に辿り着きました。鍵を開けてなかに入ると、なぜか玄関には母の靴がきちんと残っていました。電話には誰も出なかったのに――家には鍵が掛かっていたのに。よく見ると、華奢な母の靴の隣に、叔父の靴が脱ぎ捨てられていました。よく我が家に遊びに来ていた、父の弟の靴です。奥の部屋で、人がしきりに蠢いているような気配がします。やおら世界が回るような目まいに襲われて、ぎゅっと飴を噛み締めると、じわりと暖かい血の味が口のなかに広がりました。わたしは、唾液にまみれた飴玉と抜けた乳歯を吐き出して、そのまま意識を失いました。あの日、わたしの舌を滑り落ちていった、高熱に浮かされた甘美な悪夢のような、そんな現実感のない食感がするのです」
「なるほど」
 博士はまた、食べている途中の皿をすばやく取り上げた。
 三皿目の果物を食べやすい大きさにフォークで切り分ける振りをしながら、わたしは博士の声を聞き漏らすまいと耳をすませる。
「祖父は先祖代々の家業として、軍医を務めていてね。勲章や称号に帰属することで、彼なりに自我を確立した人だった。だから、奇人だの型破りな発想だのという掴みどころのないものがどうしても許しがたかったらしく、たとえ娘でも、芸術家肌だった母をたいそう疎んじていた。だが、どんなに面と向かって罵りたくても、彼女ははるか南のジャングルの奥地だ。矛先が居候のわたしに向けられるまで、さほど時間は要さなかった。だから今でも、白衣や消毒液の臭いは正直言って苦手だな。保健室には滅多に足を向けなかった口だよ」
 博士はゆっくりと両の指を組みあわせる。少し視線を落とし、わたしを見なくなる。
「月曜日は父方の祖母の家で、火曜日は伯父の家で、水曜日は従兄の家で、木曜日は祖父の家で、金曜日は大伯母の家で、土曜日は叔母の家で、日曜日はまた祖父の家で過ごした。二晩続けて同じ床で眠る日がないのが普通だと思っていたよ。だから、奨学金をとった大学の寮で下宿を始めたとき、妙に落ち着かない思いをしたものだ。こう毎晩同じ場所で眠って、背骨がおかしくならないものかと。お前などを寝かせる布団一枚ですら惜しいと、あざになるまで祖父に足蹴にされることもなくなったというのに、未だに身動き一つせずに眠れる」
 不意打ちのように博士の片頬にちらと浮かんだ暗い笑みに、わたしは陶然としてしまう。
 決してわたしに向けられたものではなくても、乾いた自嘲に歪んだものであっても、稀少動物の血を前にしたかのように、わたしの心を揺さぶる。のぼせた指先からフォークを取り落としそうになる。
「それは?」
 その質問で我に返る。
「どんな味がする?」
 言葉を失ったことを誤魔化すように、わたしは切り刻んだ果肉の一切れを口に押し込んだ。けれども、噛んでも噛んでも、ふさわしい物語が浮かんでこない。冒頭の一文を指先に捕らえても、引き寄せようとすると蜘蛛の糸のようにあっけなくちぎれてしまう。ばらばらに分解された文字ならば、いくらでもそこらじゅうに転がっているというのに。東南アジアの森に降る牡丹雪のような。体液にまみれた白衣のポケットに眠る乳歯のような。鍵の壊れた玄関で縊れ死んでいた製本職人のような。
 駄目だ、焦れば焦るほど言葉を見失ってしまう。額に汗が滲むのが分かる。
 噛んでは飲み下し、飲み下してはまた口に入れて、いたずらに反芻を繰り返しながら、精巧なキメラを産み出そうと必死に足掻くわたしを、博士は奇妙に静かな目で、いつまでも眺めていた。