パロディー、パラノイア、パレード

――何でもないようにそう言って、彼女はいくぶん露悪的にほほ笑んでみせた。
 この三十四文字で升目を埋めたところで、ふよふよと原稿用紙の上を漂う虫を見つけた。思わず万年筆の先を紙におしあてたまま右手を止めたせいで、句点の升に盛大にインクが溢れた。気付いて慌てて離したときには、見事な黒丸に塗り潰されて、裏にまで染みていた。
 透きとおった糸ミミズは、くねりながら「そ」のお尻に絡まるように踊っている。注意深く眼球を動かすと、今度は「ほ」と「笑」の間に引っかかって蠢いた。
 飛蚊症という名付けが、はたして上手いものなのかどうか、よく分からない。蚊と間違えたためしなんてないからだ。虫にたとえるなら、やはりミミズだろう。粘膜の動きに嬲られる、無力で目障りなミミズ。
 どこに視線を向けようと、律儀に視界にまじってくる異物の影を意識するとき、僕は想像することがある。この生き物は、決して僕の眼球を悩ます硝子体の濁りなどではなく、空気中に漂う微生物なのだと。カンブリア紀以降、地球上の大気のなかに存在し続けてきたその細菌は、光学顕微鏡をもってしても捉えられないはずなのだけれど、なぜか特別に僕の肉眼にだけは見えるのだと。
 想像することは自由だ。手垢のついた自由という言葉の、使い勝手のいい外面の良さを強調すれば、このつまらない眼病の産物は、微生物学における世紀の大発見にだってなり得る。想像力の欺瞞性をおおいに述べ立てるなら、これを僕がいかに口角泡を飛ばして熱弁したところで、気の毒そうな視線を浴びるのがおちということに尽きる。
 従って、僕はおごそかに口をつぐみ、静かに目を閉じる。赤黒い瞼の裏でも、律儀に眼球運動にあわせて身をよじらせるミミズの影を確認し、僕は壮大な微生物ではなく、ありふれたちっぽけな目の異常と向き合うことにしている。何でもないことのように。
 目を開く。まだ文字の嵌まっていない、原稿用紙の白い升目が見える。
 改行して、こう続けた。
――「驚かないわ。よくあることよ。本当に、よくあること」
――冷ややかに青年は眉を顰めた。皮肉屋の彼には、そのような仕草がひどく似つかわしかった。左手に抱えた分厚い洋書の背表紙を落ち着かなくなぞりながら、そのことには彼自身も、誰も気付いていない。彼の口にした短い言葉が、この本から剽窃した台詞であることにも気付かない。
――「君は、無知を知らないだけだ」
――だが、彼女は頑として屈さなかった。
――「わたしがわたしの目で見つめるもの、それがすべてよ。あなたが、誰かが、何と言おうとね」
 小説を書いているとき、まるで未踏の雪原に一歩一歩足跡を踏みしめていくような、奇妙な興奮を覚えることがある。厖大な白紙にちまちまと黒い活字を並べていく様子が、視覚的にとてもよく似ているせいかもしれない。
 雪原は、はてしなく平坦だ。そのように見える。どんな凹凸もまぶしいような白銀に覆われて、歩いてみなければどんな起伏が待っているのかも分からない。目印もない。この方向に行ってみようと目星をつけても、気付けば思いも寄らない場所に立っている。それが、思いがけない僥倖をもたらすことがあれば、命取りになることもある。
 羅針盤や方位磁石や六分儀や地図でぐるぐる巻きに武装して渡るのが、一番堅実だということは分かっている。でも僕は、たいてい無計画な丸腰で雪原に臨む。それも悪くないと思っている。
 もちろんこれは見栄を張っているのであり、技術の不足が罫線の内側でてんで好き勝手に暴れだして御しきれないから、そのようにせざるを得ないだけのことだ。冒険をうそぶく以前に、偶然に頼らざるを得ない。幸運なら僕は何とか雪原を制覇することができるし、不運なら豹のようなブリザードに喰われて二度と戻らない。前者はほんの一握りに過ぎないし、えてして平々凡々としてつまらない結末に陥りがちだった。
 僕はなんていう子殺しの極悪人なんだろう。何百という物語(もちろんさばを読んでいる)を、無責任に生み落としては未完のまま握り潰してきたのだから。
 この子はどこまで生き残れるだろう。インクを乾かすために原稿用紙に注意深く息を吹きかけながら、考えてみる。
 僕次第、という気はしない。不思議なことに、創造者は運転手ではなく、作品はレール上を走る列車でもない。堕落した青銅の時代が極まるたび、地上を洪水やら大火事やらでさんざんに痛めつける神様の心中が少しだけ分かる気がする、できそこないの紙屑を、怒りというより深い悲しみに任せてしわくちゃに丸めるとき。まあ、僕は自分を神様に比せるほど、精緻で驚異に満ちた世界を作り上げられたためしもないから、おこがましい限りなのだけれど。
 僕は生まれたての世界を机の引き出しにしまい、椅子から立ち上がる。


 小鍋に充たした牛乳を沸かしていると、じりじりと電話が鳴った。しかし、ホットミルクがいいところだ。九回ベルが鳴るまでに電話が切れたら、僕は居留守を決め込むことにしている。だが、単調なベルのフレーズが八回繰り返されても、電話の主は注意深く僕を待ち続けていた。何だか見透かされているような後ろめたさを味わいながらこんろの火を止め、受話器を取った。
「もしもし」
『もしかして、小説を書いているところだったのかしら』
 名乗りもしない質問が、いきなり受話器をあてた右耳に春風のように吹きかかってきた。だが、これが相手の流儀なのだ。こんなふうに電話を掛けてくる人間を、僕はひとりしか知らない。
「書いてたけど、今は休憩中だよ」
 僕も、慣れている。耳の奥で何かが融ける。
『よかった、大事な執筆活動をじゃましたわけじゃないのね』
「別に、大事ってほどのものを書けているわけじゃないけど」
『ねえ、今度はどんな小説を書いてるの』
 無邪気に尋ねられて、僕は考え込みながら、無意識のうちに左手で、あごに膨れていた吹き出物をひねり潰していた。あらすじを頭のなかでまとめながら、ぼりぼりとその頭蓋を覆う毛髪をせわしなく掻き毟る。
「……図書館が舞台なんだ。本や、過去の遺した記憶に埋もれながら生きる人々が出てくる」
『あら、図書館ってことは現代が舞台なのね』
「いや、ここではないどこかの世界なんだ。うまく言えないけど、現代でも過去でも未来でもない、この世界ではないどこかだよ。人間がいて、太陽が昇ると朝で、冬には雪が降り積もって、犬はわんと吼えるけれど、とにかくここではないんだ」
 僕は柄にもなく力説している。電話越しに彼女と話すとき、なぜかいつもこんなふうにすらすらと声が出る。普段の僕はとても口下手で、会話でさえ筆談の方がはかどりそうなくらい、声帯を使うのが億劫な人間なのだけど、唯一の例外がここにある。
『そんな世界に図書館があるの?』
「あるんだ。奇妙が図書館が建っていて、奇妙な本ばかりが本棚に収まっていて、奇妙な人々が住み着いている」
『ここではないどこかの世界だけれど、図書館はある。図書館はあるけれど、普通の図書館じゃない』
 彼女は知らない味の飴玉をほおばるように、神妙に情報を整理した。作者の僕が説明するより、ずっと端的で上手だ。
『続けてちょうだい。そこで、どんなことが起きるの?』
「実は、まだそんなに書けていないんだ。序盤の少しだけ。これからどうなるか、僕にもよく分からない」
 白状する。電話機のボタンを見つめていると、2のしっぽに透明なミミズが絡んでいるのに気付いた。やっぱり蚊には見えない。瞬きすると、今度は6の近くに擦り寄って、#へ落ちていった。
『じゃあ、どんな人たちが登場するの? 書けているところまででいいから、話してちょうだいよ』
 彼女はめげるということを知らない。だから僕は、ときおり受話器を通して彼女のしなやかな声を吸収することを、心待ちにするのかもしれない。
「今のところ顔を見せているのは、二人だけだよ。男と女」
 仰せのままに僕は答えている。
「男は奇病に侵されている。本で読んだ言葉しか口にできない、という病なんだ。自分の言葉で喋ることはできない。だから、必然的に彼は読書家になった。あまりに図書館に入り浸るから、とうとう図書館の一部に取り込まれてしまった人だ。話すためにたくさん本を読まなければいけないから、彼はとても賢い。でも、この病気になったのは自分が特別に選ばれた人間だからだと思い上がってもいるから、少々愚かでもある」
 彼女がふんふんと相槌を打つ鼻息が、鼓膜を心地よくくすぐる。僕は受話器に押し付けた耳をそばだてる。僕の吐息は、だらだらと不要な言葉ばかり伴い続ける。
「女は、まったく字が読めないんだ。よくそれをばかにされるけど、彼女は堂々としている。彼女は、脳みそじゃなく手足で判断することが肝心だと、強気に信じ込んでいる。彼女はマッチ売りで、美しい火を見るのがとても好きなんだ。古い本の劣化した羊皮紙がとても鮮やかな緋色の炎を生み出すことを知って、燃やしたくてたまらなくて図書館にしょっちゅう現れる。そのたび、さっきの男と衝突するんだ。彼にとって、本を火の鑑賞のための燃料にするなんて、それこそ言語道断だからね」
『正反対の二人なのね。その人たちはもしかして、恋に落ちるんじゃない?』
 彼女がからかうような声になる。僕はなぜか少しばかり照れそうになる。
「さあね。それは少しありがちだから、ひねくれ者の僕としてはもっと――なんて言えばいいのかな、この二人で物語を完結させてしまうと、図書館っていう濃密な非日常の舞台が、あんまり活きそうにないんだ。もっと暗黙の奥行きをもたせるために、ほかにも登場人物を増やしていこうと思ってる。そういう彼らに絡めて、二人の内容を広げていってもいい。たとえば、さっきの彼女が心行くまで本を燃やすために、図書館の初老の館長の……」
 愛人、と言いかけて僕はとっさに呑み込んだ。
「恋人になる、というのはどうだろう。彼女のしたたかな部分がよく描ける」
『策士ね。いいえ、彼女のことじゃなくて、あなたのことよ。ほんとうにひねくれ者』
「どういたしまして」
 ミミズは今度は、受話器と本体を繋ぐコードに引っかかるようにして漂っている。
「僕ばかり喋ってしまったけど、君の方は変わりないかい。元気にしてるの」
『相変わらずよ。あなたの小説みたいに何かしら劇的だったらと思うわ。いつも、いつもそう。相変わらず口だけは達者な祖母のおむつを変えて、相変わらず猫好きな職場の先輩にいびられて、相変わらず心優しい恋人は奥さんと別れてくれない。なんにも変わりやしないわ』
 あけすけに彼女は嘆いた。僕はいつも通りにため息をついてあげることしかできない。だが、直後に彼女は口調を変えた。ふと思い出したとでもいうように。
『そうね、ひとつだけ変化があったわ――妊娠検査薬がプラスになったの』
 のろまな僕はようやく気付いた。彼女が、それを告げるために電話を掛けてきたのだと。
「恋人には教えたのかい」
『ええ、次の日に言ったわ。しばらく黙ってた。わたしが次に堕ろすと言うのを待ってるみたいだった。わたしも黙ってた。一時間も二時間もね。彼が黙ったままふいに立ち上がって、ここじゃないどこかに行ってしまって、一週間ぱったりと音信不通でもね。誰にも何にも言わずに、黙々と途方に暮れてた。でも、昨日やっと彼が連絡をくれたの。明日お祝いにドーナツを買っていくからって。だからこうして、うずうずしながら待ってるの。うずうずしすぎて落ち着かなくて、あなたに電話してしまうくらい嬉しいの』
「おめでとう」
 僕は漠然とした急ごしらえのお祝いを述べた。できたてほやほやの両生類みたいな赤ん坊に対してか、したたかな彼女の胎盤に対してか、僕の小説などよりよっぽど奇々怪々として複雑な現実に対してかは、とても特定できるものではないけれども。
 つかのま、僕は目の前をミミズが堂々と横切っても気付かないくらい、ぼんやりと世界から取り残された。味気ない言葉だけが、まるで本から台詞をスクラップする男のように、次から次へと無意味に舌から転がり出てくる。違う。違うんだ。僕が言いたいのはそうじゃないんだ。
 でも、それを言葉にして言うわけにはいかないんだ。
 さっき潰した吹き出物のあとは、薄くかさぶたがはりはじめていたが、僕はまたしても無意識にインクで汚れた指で掻き毟っていた。
「いろいろと準備しなくちゃいけないね。忙しくなるだろう。家族が増えるというのは手がかかることだもの。君がお母さんになるなんて、とても信じられないよ。想像もつかないな。つわりは大丈夫なのかい。ドーナツなんてあぶらっぽいもの、食べられないんじゃないか」
『それが、まったく平気なのよ。かえっておなかが空いてたまらないくらい。一ダースだってたいらげられるかもしれないわ。彼が、店で一番美味しいドーナツを買ってきてくれるというの。だから、赤ちゃんのためにも、たくさん栄養を摂らないといけないわ』
 彼女の声ははずんでいて、僕も盛大に祝福しながら、あごの傷口をめちゃめちゃに掻き毟る爪の先には、いつのまにか血がしみていた。
「ほんとうにおめでとう」
『ありがとう。あら、チャイムだわ。きっと彼よ。ごめんなさい、切るわ』
「うん、お大事に」
 受話器を置くと、鼓膜がざらざらした沈黙を捉えた。台所に戻ると、鍋の牛乳は不味くひえきっていた。僕はことさらゆっくりと自分を落ち着かせるように歩み寄ったが、鍋の取っ手を掴むと一気にシンクにぶちまけていた。白く平べったい粘膜が、ステンレスに絡まりつきながら流れ落ちていく。
 僕は何をしているんだろうと、流し台を睨みつけながらあきれかえっている僕がいる。僕が逼塞した部屋の隅でいじましく物語の幼生を嬲り殺しているうちに、彼女は世界のただなかでたったひとり母になろうとしていた。僕は何もしなかった。何ひとつとして。だから、彼女に言える言葉などなかった。
 シンクはかすかな乳臭いにおいに染め替えられながら、不潔な白い筋を浮かび上がらせた。僕には、原稿用紙の厖大な雪原にしか帰る場所がない。暗澹と目を瞑ると、瞼の暗がりに悶え苦しむミミズが、まだこの世に生を享けない不完全な活字に絡みついた。ひとつのエピソードが鮮やかに浮かび上がってくる。
 マッチ売りの女は、館長の子を身篭るのだ。そして、子どもを盾にとって図書館の本を全部燃やすことを許してほしいと訴える。男はもちろん強く反対し、館長は奇妙な沈黙を守る。そしてある日、館長は彼女にお祝いの洋菓子を贈る。望む通りにしなさいと言いながら。男の渋面を尻目に、彼女は嬉しそうにお菓子をほおばる。館長はほほ笑みながら彼女を見ている。館長はなぜそれを食べないのだろう?
 女が突然顔色を変える。つわりだわ、とうめきながら流し台にかがみ込む。胃液にまみれた洋菓子が次々にせりあがってくる。けれども、吐いても吐いても嘔吐は止まらない。やがて、彼女の口から緋色の血が溢れる。爛れた臓器が次々にシンクに吐き出される。したたかな胎盤も。両生類のような嬰児も。ただならない様子に、男は血相を変えて館長の襟首を引っ掴む。
(毒を……)
 妻と別れるのを渋っているのに、お祝いだと称して妊娠した彼女のもとへやってくる理由。一週間も姿をくらましていたのに、突然戻ってきて彼女にドーナツを食べさせようとする理由。
 閉塞した雪原の彼方から、僕は牛乳にべとつく鍋を放り出して、物言わぬ電話に掴みかかった。