祝り女の島
白熱する太陽に炙られた空は、薄藍の火焔となって燃え盛る。見渡す限りの孔雀青の海は抜き身の剣のように煌めき、島々におびただしく繁茂する緑の木下闇は墨を刷いたように暗い。
打ち棄てられた離宮を覆い包むように、甘橙の木立は瑞々しい枝葉を扇のように押し広げた。鈴なりの黄金色の実は、粒揃いの珠玉をふんだんに連ねた首飾りのようだ。蜜を含み、まろやかに膨らんで枝をたわませ、賞味する唇をせがむ。
だが、甲斐甲斐しくかしずく農夫もなく、餓え渇いた旅人も足を向けぬ禁域であり、実の大半はいたずらに熟れ朽ちるままにされた。
時を逸した酸い果肉を、裂け破れた果皮からこそげて喰らうのは、冠羽を逆立てた獣鳥や豹紋の大蜥蜴ばかり。古びて黒ずんだ果汁には、ぞわぞわと地を這う多肢の虫や椰子蟹、宿借りどもが群がり寄る。
恨みがましく萎び、虚しく砂にまみれた無数の落果のかたわらで、樹下に咲き匂う野百合と蘭、夾竹桃の香りが綯い交ぜられ、蛇の腹のような物思わしい湿りを帯びた。濃密な芳香は、岸辺に吹き寄せる潮風に乗り、軽やかな輿に担がれた貴婦人のように運ばれる。壊れた窓から離宮に忍び入り、風雨に晒されひびわれた柱廊を過ぎて、宮の奥深くに幽閉された廃妃の髪をくすぐった。
罪人となり王の側室を降ろされた女には、簪はおろか、髷を結うことすら許されない。梳きおろした豊かな黒髪は、蕉紗の簡素な白装束をまとった肩を滑り、滝のように腰に流れ落ちて、膝裏へ届き、床にまで及んでとぐろを巻く。
財物を没収され、後宮の座所を追われた廃妃は、草木に埋もれた王都の外れに身柄を移されるに至った。老いた驢馬の背に乗せられて荒城の牢獄へ連行される間際、ただ一つだけ、使いなじんだ織機を伴うことを望み、聞き入れられた。
髪を振り乱しながら一心に機を織っていた女は、風の呼び声を聞きとり、束の間、筬を操る手を休めた。
「あら、こんな場所にも客人が」
虚空に向かって呟き、寂しくほほ笑みかける。
***
夫の女が身重になったと知り、真南風姫は産着を縫い始めた。
夫の母は、島守屋敷の外れに建てられた寡婦の隠居所に真南風姫を招き、茉莉花茶を手ずから振る舞いながら、注意深く切り出した。
もちろん、この先あなたが嫡男をみごもることがあれば、外腹の子は速やかに跡継ぎから取り外される――と、夫の母はふくよかな手を伸ばして真南風姫に触れながら、やんわりと約束した。島守の按司の家に嫁いでから三年余り、一度も膨れたことのない真南風姫の腹に目を走らせることはしなかった。
見送られながら隠居所を辞すと、真南風姫は胸を掻きむしりたくなるほどの酷い渇きに苛まれた。夫の母の茉莉花茶は、飲み下せば飲み下すほどに煮えたぎった油のごとく胃の腑を焼いた。よろめくように母屋の苑に植わった柘榴の木に歩み寄ると、紅く熟れた実をもぎ取り、引き裂いて噛みついた。歯と歯に潰されて爆ぜた果汁の涼しさが、舌から喉へ伝い落ちていき、姫はようやく震えの収まった指で、濡れた唇をぬぐった。
島守の正夫人の住まいに戻ると、真南風姫は手を叩き、侍女を呼び集めて一棹の長櫃を運び出させた。蓋を押し開けると、一反の苧麻織の上布がこぼれる。王宮に献上しても遜色のないほどの逸品に、固唾を呑んで見守っていた侍女たちは思わず感嘆のため息を漏らした。
真南風姫の生家は、島の祭殿に奉仕する神女や巫女たちを数多く輩出してきた指折りの名門であり、嫁入り道具にも極上の品が揃えられた。高く結い上げた髷に花を挿し、青葉を飾った輿に乗って嫁ぐ前夜、生家の母と祖母とに懇々と言い含められた訓戒を、姫は昨日のことのように心に思い返した。島守の奥方となるからには、あなたはこの島で神女様に次ぐ地位の女として島民たちに仰がれることになります。我が娘よ、賢い子よ、婚家で取り乱した姿を見せてはなりません、何があろうとも――
この上布の使い道についても、母はほほ笑みながら言い添えた。婚礼から数年の月日が過ぎても長櫃の蓋が固く閉ざされたままとは、母も祖母も考えなかったに違いない。
真南風姫は島守屋敷の女主人らしい命令に慣れた声で指示を出し、五色の糸を用意させた。生成りの白のほかは、染色の巧みな侍女たちが受け持った――蘇芳から赤を、藍から青を、福木から黄を、櫟から黒を。染料が乾き、出来上がった色鮮やかな糸束を手元に引き寄せると、姫は惜しげもなく上布に鋏の刃を滑らせた。そして、針に糸を通し、ただ一人、一心不乱に縫い始めた――夫の女が産み落とす子どものための産着を。
姫の指がすばやく踊ると、針は銀の閃光のように布の上を走った。蜘蛛、蠍、百足、蛇、蟇蛙の紋様が次々と縫い取られていく。かよわい赤子にあらかじめ毒をまとわせることで、毒から守る。邪をもって邪を祓い、新しい命を言祝ぎ、無病息災を願うのだ。
姫の水際立った針さばきは、糸を絡ませることもなく、布を傷めることもなかった。島の女は、身分の貴賤に関わらず、幼い頃から糸紡ぎと機織り、針仕事を叩き込まれて育つ。真南風姫が姉妹をさしおいて島守の妻に選ばれたのも、家柄のほかにその縫織の腕で夫の母に見込まれたからだ。針を動かしていると、頭の芯が泉のように澄んでいく――たとえ手を止めるやいなや、窒息するような煩悶の泥に呑まれるとしても。
産着が縫い上がると、真南風姫はすぐさま召使いを遣り、女の家に届けさせた。錐にえぐられるようなこめかみの痛みをなだめようと、草臥れきった体を引きずって、姫は夕暮れの苑に出た。拗くれた幹を絡ませあう榕樹の木陰に腰を下ろすと、蕩けるように瞼が落ちる。
務めは終わったというのに、夢の中ではまだ針を持った手を忙しなく動かしていて、だが、それは五色の糸でもなければ、禍々しい毒蟲の紋様でもなかった。月明かりを紡いだようなまばゆい銀糸で、真南風姫は膝に広げた滑らかな絹の布に、匂やかな蝶の紋様を描き出す。心満たされる思いで、馥郁とした翅の一枚一枚を夢中になって縫いとった。
縫い上がった蝶が途方もなくいとおしく、端糸を結んだ後も、姫は何度も眺め、何度も掌でなでた。すると、指の下で何かがちらちらと蠢き、手を離した瞬間、本物の大帛斑蝶が薄様のような翅をはばたかせて、ひらりと絹布から飛び立った。蝶は姫の膝にとまって呼吸するように翅を開け閉じしたり、打掛をまとった肩に鱗粉を散らして戯れたりした。蝶の前肢がふわりと耳朶に掴まった時、ふいに姫は靄がかったかぼそい声を聞いた。
『かの女の産む息子は次代の島守となるが、一代で絶える。そなたの産む娘は、いと高き家系と血を和し、王国の滅ぶ日まで子々孫々栄える』
榕樹の木陰で目覚めた時、日はとうに落ちていた。姿の見えない真南風姫を捜して慌てふためく侍女たちの呼び声を聞きながら、姫は瘧のように痙攣する肩を抱くのに精一杯で、返事もできなかった。頭上の雲を押し分けて煌々と月影が降り注ぎ、姫の膝を照らす。真南風姫はこの時、己がみごもったことを知った。
***
島守屋敷の裏角に建てられた小さな舞殿で、雲風姫はひとさし踊った。
楽人も客もいない。心の中で拍を取りながら踏み込むと、くるぶしに巻いた鈴がひそやかに震えた。秋闌けた夜風に揺すぶられる棕櫚や蘇鉄の葉擦れ、叢林にすだく松虫や笹切の音色だけが、流れる水のような一人舞にさやさやと歓声を送る。
たとえ笛や太鼓が麗々しく奏でられずとも、指先一つ、振りの一つに至るまで姫はおろそかにしなかった。水鳥のように両腕を広げ、しなやかに袖をひるがえすと、眼裏に灼熱の日射しがよみがえる。
先の夏、王府の豊節祭の舞姫の一人に選ばれ、燦爛と光をはじく化粧石の舞台で踊りを披露した。舞姫の一団は本島の王侯貴族の令嬢から構成されるもので、地方領主の一の姫とはいえ鄙びた属島から推挙されたのは雲風姫だけだった。
歌舞に秀でた娘は、移ろう風や波に親しみ、見えざる神々に感応する巫女の素質に恵まれているという。四歳のみぎり、乳母の手に引かれながら男子禁制の聖所に詣でた雲風姫が、まだあどけない手振り足取りで稚児舞を奉納した時、高床から見守っていた神女が即座に姫の祭殿入りを打診したことは語り草となっている。ご自身の後継者として育てたいと申し出ておいでです、と乳母は興奮した口調で雲風姫の両親に報告した。
島々の政治は代々の島守の男が担うものだが、占を行なって祭祀を司り、神託をあずかる神女の権威は、時に島守のそれを凌ぐ。豊作や豊漁を求め、祭殿に寄進を行なう島民は絶えないからだ。本島の王府から五十余りの諸島を支配する国王ですら、島々の神女たちの頂点に君臨する大君神女のもたらす託宣をむげにできない。一族から神女を出すのは悪い話ではないと考えた雲風姫の父に対し、母である真南風姫は頑として首を縦に振らなかった。
「この子は並ならぬさだめを負った子です。祭殿に操を捧げ、島に縛られて一生を終えることなどよりも、大きなさだめを」
母が謎めいた眼差しで雲風姫を見つめながら拒むと、父である島守は神女の提案を保留せざるを得なかった。雲風姫と同い年の跡取り息子を外の女に産ませている父は、母に対して負い目があった。
幼子を奪われたくないがゆえの方便であろうと、彼は呑み込んだ。妻が溺愛するのも頷ける、巴旦杏のような目をした美しい子だ。妙齢ともなれば輝くばかりになるだろう。思わぬ貴人に見初められないとも限らない――いずれにせよ、急ぐ話ではない。この先、妻の意向が変わることもあろう。
この時、真南風姫の腹には二人目の子どもが宿っており、まもなく臨月だった。
しかし、二の姫が産まれても、真南風姫の態度は毫も変わらなかった。雲風姫は幼く、その奇異さに気付かなかった。最初の頃はただ、新しく生まれた妹に母が奪われなかったことを無邪気に喜んだ。侍女たちは眉を顰めて目を見交わしていた。呱々の声を上げる乳飲み子をよそに、呼び寄せた雲風姫に頬ずりしながら、母は蜜を吸ったようにうっとりと囁いた。
「あなたを孕んだ時にだけ、わたくしの夢に神が顕れました。あなたは特別な子です、あなただけが……」
二の姫が裳裾にまとわりついて甘えても黙殺する母に違和感を覚えたのはいつからだろう。雲風姫を舐めるように愛しがりながら、同じ腹から産んだ妹を冷ややかに押しやり、遠ざける母を薄ら寒く見上げたのはいつの頃からだったか。母は雲風姫の衣裳だけを手ずから縫い、妹姫の着物は捨て置き、針をとろうとすらしなかった。雲風姫一人に尽くすことだけが母の生き甲斐であり、ほかにそれを分け与えるゆとりはないとばかりに。
熱病に冒され、死の床に臥せってからも、母はうわごとにさえ雲風姫の名前しか呼ばなかった。枕元には木犀の花のような少女に成長した妹姫もひっそりと座していたというのに、母は最期まで雲風姫だけを熱に浮かされたまなこに捉え続けた。
母の死を悼みながらも、一方で今際の際にさえ薄れることのなかったその執着が恐ろしかった。喪が明けてからも、ふとした拍子に暗がりから姫を絆す母の眼差しを感じた。衣桁にかけた打掛の袖裏から、ひとけのない廊の果てから、影の落ちた部屋の隅から――樹皮に寄生する地衣類のように、するすると搦め捕ってくる気配を。この世の外のものに触れる巫女の血が、雲風姫にそれを警告した。
姫は、汗のにじむ手で香炉に月桃の香を焚いた。月桃には魔除けの効があり、煙をくゆらせると母の気配は後退するように思われた。そして、姫はますます舞に打ち込んだ。己の舞が神々から祝福されるものならば、よどみに囚われた母の魂を鎮めることもできるかもしれない。海の彼方の楽土へ送り出すことができるかもしれない。祈りをこめて、雲風姫は袖を振り、拍を踏んだ。
いつしか舞い手として島を越えて名を知られ、召し出された豊節祭も、雲風姫は霊鎮めの場と思いさだめて臨んだ。領土の島々のみならず外つ国からも商船が漕ぎ寄せ、水牛に牽かせた屋形車のしげく行き交う王都の殷賑も、姫の目には入らなかった。郷里では最も広壮な島守屋敷がまるで竹編みの小箱に等しい、朱漆もけざやかな王宮の威容を目の当たりにした時も、姫は心を動かさなかった。舞姫の朋輩たちから、身の程知らずの田舎娘と小声でそしられても、姫は耳を貸さなかった。大君神女の膝下の、あらたかな霊地で踊ることにのみ集中し、潔斎をして広袖の紅衣に袖を通し、扇に指を添えた。雲風姫はただひたすら音律に身をゆだねて無心に踊り、観衆の目を奪ったが、それすら姫の心に掛からぬことだった。
国土の弥栄を祈る群舞の終盤、足を引いて旋回した時、ふと姫は目が眩んだ。舞台の暑熱にあてられたのだろうか。踊り続けながら、するりと心が肉体のくびきをすり抜け、金緑の風の中に浮かんでいるような心地だった。蝶のように扇を遊ばせると、母の我執が薄らいでついには空無に溶け去るのが分かった。凄まじいまでの霊威が手の内にあったが不思議と恐ろしくはなく、無垢な嬰児のようにほほ笑むと、耳元に渦巻く風音があえかな言葉を形作った。
『一人は神に娶られ、一人は王に娶られる』
観客の喝采が、姫を我に返らせた。ほかの舞姫たちからわずかに遅れて舞台袖に下がりながら、今しがた聞いたはずの言葉が、姫の耳の奥でこだました。
舞い終えた娘たちは王宮に呼び集められ、御前で褒賞された。特に舞踊の巧みであった姫君には真珠の簪が下賜されるとして、王族筋の娘の名が呼ばれた。あらかじめそのような段取りだったのだろうと、雲風姫は悔しさすら覚えず控えていた。それよりも、無事に母を弔えたことに心安らいでいた。だが、姫の代わりに憤った者がいた。
簪の授与が終わるか終わらないかという時に、つつましく目を伏せた雲風姫の前に影がさした。当惑しながらそっと目をあげると、深緑の礼服をまとった若者が姫の前に立っていた。
「私にはそなたの踊りが最も美しかった。まるで地上に降りた天女のようだった。もし良ければこれを受けてくれ」
日に灼けた頬にまだ少年の名残りのある貴公子は、自らの喉元から琥珀を連ねた首飾りを外した。不正への怒りに燃える瞳は凜々しく、姫は我知らず頬を赤らめた。答える声は消え入るようにかすれた。
「頂戴致します」
甘橙の実のような琥珀の首飾りを受け取ってから、雲風姫は目の前の若者が世継ぎの王子であることを知った。郷里の島へと戻る船の中で、姫は首飾りの紐に指を絡めながら、王子の面影を繰り返し思い浮かべた。一人は王に娶られる、という言葉を反芻する。体の奥深い場所に火花が散るような心地だった。
潮に押し流されて運ばれるように、雲風姫を取り巻く物事はすでに動き出しており、島守は姫を王子の後宮にあげるための支度をととのえた。島の女たちは老いも若きも駆り出され、糸を紡ぎ、機を織り、布を染め、衣を縫った。長櫃や葛籠がずしりと重みを増した頃、島守は神女に船出の日を占わせた。
勾玉を首に下げ、祝詞を唱え、神託に耳をそばだてた神女は、なぜか息を呑んだ。そして、こう言った。――行かせてはならぬ。姫の産む王の子どもらは、島に災いと滅びをもたらすであろう。
島守でさえ、神女を介した御告げには逆らえない。
だが、ここまで万端に準備をととのえ、根回しを行なっておきながら縁組みを反故にすれば、王家との間に軋轢を生む。
雲風姫は渚に立ち尽くし、茫然と裳裾を汐水にひたしながら、澪を引いて岸を離れていく船を見送った。喉元に掛けた琥珀の首飾りが海風にやるせなく揺れ、触れあってわびしい音をたてる。人々は憐れむように姫から目をそらした。王都へと発つ船には、嫁入り道具と共に、王子の後宮に召される姫君が乗っている――島守の二の姫、身代わりとして、雲風姫の妹が。
港から連れ戻された雲風姫は、島守屋敷の裏角に建てられた小さな舞殿で、踊った。楽人も客もいない。あるのは草木と虫ばかり。あの方にもう一度見ていただくために、稽古を重ねた踊りだった。最も美しいと、天女のようだと、褒めてくださったあの方のために……
息が上がっても、手足が痛んで血を噴いても、姫は構わず踊り続けた。繰り返し繰り返し、行き場のない心の形をなぞり続けた。一人は神に娶られ――王に娶られる一人とは、雲風姫のことではなかった。滑稽な話だ。姫は声もたてずに噎び泣きながら己を嘲り嗤う。日が昇り、沈み、月が昇り、沈んだ。飲まず食わずのまま踊り狂ううちに、ついに限界が訪れた。足元がふらつき、膝が立たなくなり、舞殿の床に倒れ込んだその時、雲風姫は首飾りの紐がちぎれ、うなじに疼痛が走るのを感じた。そして、蛹から蝶が羽化するように、姫はするりと肉体を脱した。
虚空に浮かんだ雲風姫はゆらりとほほ笑んだ。翅があれば、船などなくても海を越えられる。あの方のそばへ行ける。
島を飛び出し、波濤を眼下に、姫は疾風のように天翔た。満天の星々を砂遊びのように掻き乱し、飛び交う鰹鳥たちを逃げ惑わせる。陸にあがると、棗椰子の林を薙ぎ倒し、赤木の巨樹の梢を折った。睨みをきかせる強面の番兵たちの頭上を飛び越し、珊瑚の石垣をまたぎ、島瓦の楼門を乗り越え、夕闇の立ちこめる王宮の奥庭まで難なく侵入した姫は、真新しい舎殿の窓辺に這い寄った。窓枠を揺さぶり、軋ませる。
「妹よ、開けてちょうだい」
部屋の奥から、はっと息を呑む声がする。
「お姉様――お姉様なの? どうやってここに」
「開けてちょうだい、わたくしを中に入れて、早く」
聞き分けのない女童のように、地団駄を踏んで雲風姫はせがんだ。
「夜になれば、あの方がここにいらっしゃるのでしょう。あの方はわたくしのもの。わたくしだけのもの。だから、早く入れて」
「……お姉様」
訝しげだった妹姫の声が徐々に怯えをつのらせていくが、雲風姫は拳で窓を叩き続けた。
「早く、早く」
「少し――少しだけ待ってください。準備を致しますから……」
妹姫の声が遠ざかり、代わりに朧な煙が窓覆いの隙間から細くたなびいてきた。それを吸った途端、雲風姫は息が詰まり、喉を押さえて後ずさった。月桃の香り、魔除けの香が焚かれたのだった。
「お姉様、お姉様、目をお覚ましになって。お姉様ともあろう方が、あんまりです」
涙声の懇願に、雲風姫は手負いの獣のような野太い唸り声を上げた。
「ざまを見ろと思っているのだろう、いい気味だと嗤っているのだろう」
「思っておりませぬ! 神掛けて、そのようなことは」
「許さない。お前だけは決して許さない」
喉を嗄らして叫ぶ。咆吼が響き渡る。
「わたくしがあの方の子種を賜ることも許されぬというなら、わたくしの子どもたちがこの世に生まれることさえ祝われぬというなら、お前の胎も呪われるがいい。百人でも千人でも、お前の子どもを呪い殺してやる。お前の子は、お前の腕の中で弱って死んでいくがいい」
きらびやかな王宮の情景が粘土のように歪み、泥濘のように攪拌された。目を回して倒れ込むと、そこは島守屋敷の舞殿で、雲風姫は冷たい板の間に頬をつけ、横たわって気絶していた。千里を駆け抜けた馬のように疲弊し、指一本ろくに動かせない。
(あれは夢だった。ただの夢。わたくしは、悪い夢を見ただけ……)
ちぎれて散らばる首飾りの琥珀を目で追いながら、必死で自分にそう言い聞かせる。しかし、わずかに首を揺らした途端、つんと月桃の香りがたち、姫は堪えきれぬ悲鳴を上げた。魔を祓う煙の残り香は、雲風姫の髪に染みつき、淡やかな匂いを振りまいていた。
***
綾蝶王女は、一度だけその側室に会ったことがある。
正式な后は綾蝶王女の母ただ一人だが、一国の王である父の後宮には咲き乱れる大輪の牡丹のように数多の妃嬪が仕え、寵を争っている。花園には危険も多く、警戒を怠った幼い命が暗い手によって葬り去られることもしきりに起こった。
王女の母は、北東にある雪と桜の国の皇家から政略によって嫁いできた人で、后として冊立されてからも、この国の暑熱に苦しんだ。体が弱く、綾蝶王女と兄の双子を出産できたことは奇跡とまで称された。母が寝込むと、幼い綾蝶王女は枕元で羽扇を煽ぎ、兄は甘橙の果汁を絞った飲み物を持ってきて、蒼白い顔で力なくほほ笑む母上にかわるがわる頭をなでていただくのだった。
蒲柳の質の后の後釜を狙わんとする妾妃、我が子こそを世継ぎにと機会を窺う庶子の母妃は、表立つことはなくとも後を絶たず、獲物の周囲を泳ぎ回る鮫のように、異国人の后とその嫡子らを取り巻いた。一人で母の舎殿の外に出てはいけない、母の腹心の女官たちの目の届くところにいなければならない、というのが、綾蝶王女と兄王子に課された掟だったが、王女はそれを破ってしまったことがある。
そそっかしい女官が唐猫を逃がしてしまったのだ。西大陸の帝国の大使から贈られたものを、父王がわざわざ母上に下さったというのに――ほかの妃の舎殿に迷い込んで虐められているかもしれない、餓えて弱っているかもしれない、そう思うと居ても立ってもいられず、王女は自分もこっそり抜け出して捜すことにした。だが、王女の華奢な足一つでは探索ははかどらず、べそを掻いてうろうろしているうちに、後宮の外れに行き着いてしまったのだった。
厨房や召使い部屋の近いこの一角は、子のなく、寵も薄れた妃たちの逼塞する場所だったが、王女は知らなかった。ただ、規則正しい機の音がして、それが妙に優しく懐かしく響くので、心惹かれて音のする一室に近付いた。
「何を織っているの?」
豊かな黒髪を束ねて飾りけなく結い、機の前に腰掛けていた女人は、驚いたように振り返った。
「あら、こんな場所にも客人が」
闖入してきた王女を見下ろして呟き、ほほ笑みを浮かべる。巴旦杏のような美しい目をしているが、木犀の花のように儚い、どこか悲しげな微笑だった。敵意は感じられなかったので、王女は馴れ馴れしくまとわりついて手元を覗き込んだ。
「機織り、お上手ね」
「まあ、有難うございます。わたくしの母が、縫いと織りの技に長けた人だったのです。母の気を惹きたくて、わたくしも修練しましたの」
いとけない王女にも、その側室はうやうやしい口調を崩さなかった。
「そうなの。とても素敵。もちろんあなたのお母様はうんとお褒めになったのでしょうね、こんなにお上手なのですもの」
たおやかな手元に広がる綾目の見事さに王女は感嘆のため息を漏らしたが、女人は黙して答えずほほ笑むだけだった。目を細め、女人は王女を静かに見つめた。ほっそりとした腕が伸び、そっと王女の髪をなでるような素振りをしたが、触れる寸前に肘を引き、両の手の指を絡めて目を伏せた。
「あなたもお母様の元にお戻りにならなくては、王女殿下。きっと心配しておられます」
見当たらなかった唐猫は、いつの間にかしらりと戻ってきており、母の螺鈿細工の鏡台の上で丸くなって昼寝をしていた。人の苦労も知らないでのんきな寝顔で眠りこける猫を覗き込むと、ぴかぴかに磨かれた青銅の鏡の面に、もう一匹の猫ともう一人の綾蝶王女の顔が映った。
鏡の前で笑い顔をしたり顰めっ面をしたりして一人遊びをしていると、何か靄がかったものが脳裏をよぎったが、その疑念に輪郭を持たせるには、王女はまだ幼すぎた。
時は移ろい、過ぎ去った。綾蝶王女は女童から妙齢の巫女姫へと変貌していた。
ある年、領土の島々を疫病の嵐が襲った。薬師たちがどれほど手を尽くしても、神官たちがどれほど天に訴えても、掌から水のこぼれ落ちるように人命は失われた。蔓延した悪疫がようやく終息した後も人心は荒れすさんだままで、内乱が勃発した。蜂起したのはあの機織りの側室の故郷で、逆賊との関わりを疑われた妃は廃され、後宮を追われた。
双子の兄の率いる討伐軍の船に、綾蝶王女も同乗した。
王府の船団は沖から浜に押し寄せたが、反乱軍は海岸に陣取って弓を引き、双方睨みあったまま戦況は膠着した。
島の神女は波打ち際に立つと、蔦葛を髪に戴き、樹枝を手に舞い、王府軍を呪った。白波を蹴立て、踊った。空の風や潮の路に親和する、凄まじい力を持つ神女だった。たちまち豪雨が降り注ぎ、波は荒れ、軍船は木の葉のように転覆しかかった。綾蝶王女は甲板を駆け、舳先に飛び出して、ひたと浜を見据えた。
雨と波をまともに浴びた長衣は重く手足にのしかかり、濡れた髪は頬に張りついたが、王女は胸のはち切れんばかりに息を吸い込み、朗々と呪歌を歌った。雲一つなく晴れ渡る蒼穹のなごやかさを祝い、花々をほころばせ赤子のゆりかごを憩わせるそよ風を褒め、船人や海女を生かして子の待つ家に帰す凪を讃えた。次第に風雨は止み、海は静まった。軍船はついに陸に漕ぎ寄せた。
島守一族は捕らえられ、斬首された。神女は断崖から身を投げた。白い袖をひらめかせ、翅をもがれた蝶のように墜ちていった。
「あの神女、他人の空似とはいえそなたによく似ていたな。不思議なこともあるものだ」
何気ない兄の呟きに、綾蝶王女は血の気が引いた。
王宮では戦勝の宴が、武勲をたてた王子と王女を待ち受けていた。反乱を鎮圧した兄君が次期国王となられ、大海原の神の加護を得た妹君が大君神女の座につかれるのはもはや時間の問題だろうと、めざとい宮廷人たちは手に手に祝いの品を掲げて馳せ参じた。
家鴨は羽を毟られ、山羊は腹を裂かれて、黒豚は丸焼きにされた。儒艮は首を落とされ、泥蟹は生きたまま煮え鍋に放り込まれる。祝宴のために、厨房には断末魔の鳴き声と血の悪臭が充満した。
なみなみと注がれる酒とくちぐちに浴びせられる阿諛追従は兄に押しつけ、綾蝶王女は厩から引き出して鞍をつけた白駒にまたがると、王宮を抜け出した。
今、王女が青銅の鏡を覗けば、若木のように成長した娘が――あの側室の相貌とよく似た面差しが、物問いたげに見つめ返してくるのだろう。
虚弱で子のなせない后に、自らの腹を痛めた王子と王女をひそかに託した女人の――一切の誉れを断って、日の当たらぬ場所で物言わぬまま機を織り続けた人の。
――だとしたら、王女と兄が屠ったあの島の人々は。
誰に何を問えばよいのか、何も問うべきではないのか、王女は思い惑いながらただひたすらに馬を走らせる。打ち棄てられた離宮を覆い包むような甘橙の木立に、馬は王女を乗せて分け入った。腐り落ちた実を、蹄が踏みにじる。
風に乗って、幻のように機の音が聞こえ、王女は思わず手綱を引いた。言葉を失い、しばしその場を動けずにいた。