禁帯出図書

 彼方に連なる山稜から、煌々と月が昇る。
 だが、草深い谷懐に巣喰う夜陰をあばくには、弱い。
 黒蜜のような闇をなみなみと湛えた谷底の、一面に咲き群れているはずの桃林の色の、ひとひらさえ見えない。だが、芳香は、文目も分かぬ闇を越えて、この山上の楼閣へも立ち上ってきた。花々の吐息は、日の目を失ったこの無明でこそいっそう、人の心を誑かさんと極まるようだ。
 けれども、張り出した塁壁の端に松明を掲げ、楼閣の不寝番の一人を務める少年の顔は険しかった。その馥郁とした蠱惑に恍惚とするどころか、眉間に皺を刻みさえした。野山の香を愉しまぬわけではない。花に心を動かさないわけではない。むしろ、兵馬に踏みにじられぬ国土の春を讃えて詩を詠み、皇帝の平らかな治世をことほぐ技量は、彼の官職には欠くべからざる才覚だ。だが、さすがに今宵ばかりは、そのような風雅にうつつを抜かせてはいられなかった。
 少年の立つ露台の上にしらじらと落ちていた月光が、わずかに掻き乱れた。丹塗りの柱の裏に張り付いていた蛾が、ふいに飛び立ったのだ。少年の差し出す松明の炎に誘われたのだろう。微小な鱗粉を撒き散らしながら、相似形のいびつな紋様を浮かべた厚ぼったい翅を広げ、舞い寄らんとする。肥え太った不恰好な影が、せわしなく羽音をたてる。
 顔を向けず、瞳だけをすばやく動かした少年の、その蒼いような白目が血走った。刹那、手火にふさがっていない側の袍の袖が、虚空を切るようにひるがえる。それで終わりだった。一刀のもと真っ二つに斬り伏せられた灯蛾の死骸は、楼閣に吹き付ける山の夜風に攫われ、はらはらと闇のいずこかへ消え去った。
「相変わらず、紙と墨とに埋もれさせておくには惜しい腕だの。だが、そう逸るな」
 苦笑まじりの声に、少年は慌てて振り返った。
「――図書頭。そこにおられたとは存じませず」
 とっさに礼を取ろうとする少年を、瓦葺きの庇の奥から露台に進み出てきた彼の師父は柔らかな手振りで制し、彼の隣に並んだ。
「まだ、下界に動きはないか」
 宵闇に包まれた谷に目を落とし、尋ねる。
「はい、今のところは」
 同じように見下ろしながら少年は答え、幼さの残る唇を引き締めた。
「我が師、彼らは本当にやって来るでしょうか」
「来るとも。来ずにはおられぬ。そうした手合いなのだから」
 師父は、髭の生えないあごをなでながら、物憂げに請け合った。
「次に月が満ちれば、『春蚕』がちょうど孵る頃合いであろう。この時期に卵殻を破る幼虫が、いずれ最も兇悪な蟲として羽化することになると聞く。蟲使いどもとしては、是が非でも手塩にかけたいところであろうよ。あの匪賊どもは、邪術に使役することになる蟲の仔に、より質のまさる餌を食ませたいことであろう――より霊威に満ちた書物を。そのためには手段を選ばぬ。畏れ多くも、主上の神聖なる文殿に押し入ってでもな」
 山上に築かれた巨大な楼閣は、名だたる離宮の一つであると共に、文書を主とした宝蔵も兼ねている。皇祖が中原を統一して以来、数千年に亘る御代の、ありとあらゆる記録が、ここにはひしめきあうようにして眠っている。世にある限りすべての書物が蒐集されたがゆえに、時に、ただならぬ妖気を帯びたものさえ含まれ、紐解くにあたっては、破魔のための並みならぬ鍛練と、細心の注意を要した。従って、収蔵された書籍や経典に触れることを許されたのが、代々の皇帝とその太子、管理にあたる選び抜かれた宦官たちのみであったのも、無理からぬことだった。
「この楼へ昇ることを許され、日の浅いそなたには実感が湧かぬであろうが、じきに慣れよう。蟲使いの一族の襲撃は、今宵が最初ではないし、今宵が最後でもないのだから」
「しかし、こともあろうに主上の御蔵を狙うとは。狂気の沙汰です」
「邪術を操り、外法を旨として、人外に身を奉じた者たちだ。我らの道理の埒外にあることは、理解せねばならぬ」
 もっとも、宦官となるため自然の摂理に背いたこの身もまた、常人に肩を並べることは適うまいが――と続けるべき言葉を、少年の師父は差し控えた。代わりに、思い遣り深い眼差しで少年を見やった。
「逆賊を相手に、その見事な剣技を発揮してほしいところだが、残念ながらそのような運びにはなるまい。大概は、城門を守護する武官たちや、彼らの使役する霊獣が始末をつける。我らは万一の警戒を怠らねばよいだけだ」
「分かっております」
 どこか口惜しげに少年は答えた。賊の侵入を許し秘蔵の書物を危険に晒す懸念よりも、蟲使いを手ずから誅殺できない苛立ちに気が散じているかとさえ見え、内心で師父を危ぶませた。
 しかし、少年の出自を心得ていれば、得心のいかないことではなかった。彼の郷里は、国にまつろわぬ妖術師たちの無益な相克に巻き込まれ、虫害に呪われて、むごたらしい焦土と化したと聞いている。幼くして家族を奪われ、よるべもない孤児が世を渡るすべは、あまりにも少ない。嘲られながら、宦官として貴人の膝下に這いつくばり、才を見込まれ生き残ることができた少年は、望外なほど僥倖に恵まれた方だと言えるのだ。だが、どれほど栄達を重ねようと、彼がすべての元凶を忘れ去ることはないだろう。骨髄に徹した怨みの燠火が消えることはあるまい。
「ほんに、よい匂いだな。この高みにまで香るなら、花の下はさぞかぐわしかろう」
 静かに述べ、師父は深谷にこごる闇に再び目を落とした。一代にして絶えることを運命づけられ、決して子をなすことのかなわぬ彼にとって、文殿に属さぬ侍童の頃から目をかけてきた少年は我が子に等しい。それゆえに、憤激に我を忘れ暴挙に走ることが案じられてならないのだ。
「まことに」
 視線の向く先を同じくしながらも、心ここにあらずというように、少年は頷いた。その黄衣の袖口には、鞘に収めた白刃がしっかと握られている。



 いかに欠けたるところのない月をもってしても、この闇間は照らせまい。
 谷の底に満ちる夜気は、樹上から絶え間なく浴びせられる桃の香に塗り潰され、噎せ返らんほどだ。深く息を継げば、肺の腑にひとひらの花弁の混じ入るような気さえする。あまりに過密な香気に圧倒され、心身の軟弱な者なら、酩酊し、耽溺もしようし、乱心しさえするのではなかろうか。
 けれども、樹下に片膝をついて身を潜め、夜盗の一人として待機している少女の目に発狂の兆しはない。息苦しいほどに立ち込める桃花の香りにも、顔を覆い隠す頭巾の下で眉一つ動かさなかった。野山の香を愉しめるほど、悠長に構えたことはない。花に動かす心は、最初から持ち合わせていないか、覚えのないほど幼い頃に忘れ去って久しい。そもそも、人心の弱みに付け込んでは呪詛を行ない、乱世を差し招く蟲使いとしての彼女の技量には、不要な才覚だ。
 少女の屈み込んだ地面の上にくろぐろと横たわっていた暗闇が、かすかに揺れ震えた。静まり返った桃林の陰から一頭の蝶が、ふいに姿を現したのだ。少女の流す血の臭いに魅かれたのだろう。落花と見まがうほどなよやかに微風に乗り、透きとおるように白い翅を見せながら舞い寄ってくる。たおたおと儚げな影が、ゆるやかに樹間を縫って閃く。
 あごを引き、半眼となった少女は、黙ってその行方を見守った。少女の手首にとまった蝶は、らせんに巻いた口吻をおもむろに伸ばす。そして、籠手の隙間に覗く傷口に突き刺した。癒えかけていた傷がえぐられて開き、乾いて固まりかけていた血が再び流れ出すのを、少女は無表情に眺め下ろした。蒼ざめて映るほどに白かった双の翅が、一瞬にして夜目にも鮮やかな緋に染まる。
「餓えているのね。でも、あと少しだけ我慢してね」
 なおも貪欲に血を啜り続けようとする蟲を、そっと払い除けながら、少女は囁きかけた。
「もうすぐ、豚のように脂ぎった宦官の血を、たんと吸わせてあげる」
 異母兄弟の一人との手合わせの最中に負った手傷だった。修錬の一環とはいえ、肉親の情けなど最初からなきに等しいし、少女も蟲を操り相手を切り裂かせることに何の躊躇もなかった。一族のなかでは、強く生まれついた者だけが生き残ることを許される。
 蠱毒という呪殺の技がある。さまざまな蟲を一つの壺に封じて共喰いさせ、最後に残った一匹を使役するのだ。蟲と同じように、蟲使いの一族もまた、粟粒のごとく次々と殖えては、たやすく次々と命を落とす。弱い者は、強い者の生贄とされる。
『けれど、わたくしたち一族は、はじめからこのようなむごい定めを負っていたのではないのですよ』
 愁いを帯びた母の声が、少女の耳によみがえる。
『わたくしたちはかつて、貴種だったのです。わたくしたちに世襲される異能は、すなわち群俗を従えるにふさわしい、尊く選ばれた血の証だったのです。あの皇統を僭称する凡庸の一族に虐げられるまでは――わたくしたちの家名が穢され、闇に葬られるまでは』
 母は、一族屈指の、強く美しい蟲使いだった――呪詛返しを受け、無残に斃れるまでは。そして、弱く醜い、用済みの廃人となった。一族の者たちは、まだ辛うじて息のある母の身体を、次代の蟲の宿主とすることを決めた。
 床榻に病臥する母の上で、舞い狂うように翅と翅を重ね、脚と脚を絡めてはげしく交尾する無数の蟲たちを、少女はうつろな目で見上げていた。肢体の至るところに産卵管を差し込まれ、卵を産みつけられた母の、細かく痙攣する様を見下ろしていた。そして、母の屍肉を掻き分け食い破って、のたくり蠢きながらわらわらと這い出てきた幼虫を迎えた。ようこそ。同じ女の血肉から産まれいずるものなれば、わたしとお前たちは同胞。わたしは虫けらに等しい。
 繭を経て成虫となれば専ら肉食となるが、幼虫のうちは植物質のものを好む。羽化までにいかに妖気を蓄えさせるかが、蟲使いの命運を分けると言ってもよい。より豊かな滋養を含む餌を食ませねばならない――たとえば、書物のような。この世のものとは思われぬ文字を綴られ、魔性を帯びた畸形の書のような。
 少女はうっそりと、山上にそびえる楼閣を仰いだ。冴え渡る月光を浴びて、はろばろと天を摩り、地上を睥睨している。
 あのような豪奢な宮殿に、何の苦労もなく、我がもの顔に暮らす者たちは思いも寄らないだろう。妖術師としての覇権をめぐり、ときに親兄弟でさえもが互いに喰らいあう血みどろの地獄を、知るよしもないだろう。己の命を勝ち得るために、死に物狂いでおぞましい蟲を飼い育てなければならない、蟲使いたちの絶叫など想像もつかないのだろう。類い稀なる異形の書が、なめくじのような指をし、しみ一つない金襴緞子をまとった人間の慰みものとして、死蔵されてよいはずがない。
 桃の花に風が吹き付け、はらはらと散り落ちた。湧きおこった雲に群がられた月が、ひっそりと翳ってゆく。
 少女が立ち上がると、森閑としていた夜闇が、波立ち、騒いだ。藪から、林冠から、下生えから、木のうろから、花々の陰から、草深い谷間のありとあらゆる場所から一斉に飛び立つものがある。穢れない純白の翅を持ち、鉄針のごとき口吻をそなえた、幾百幾千に及ぶ雲霞のような蟲。
 それらを召し連れ、少女はのしかかる巨像のような楼閣を見据えた。地を蹴って、走り出した。